海外旅日記

2007年06月15日

ウズベキスタン

10日間ほど予定の無い日がありましたので、2007年6月15日〜22日までトルコにスケッチ旅行に行って来ました。トルコは鉄道が有るものの本数が少なく使えないので、てっとり早く、肝心な場所に行けるツアーに参加する事にしました。
これだと、自分の描きたい場所で、いつまでも描くということは出来ませんが、事情が事情で仕方ないです。安いツアーで、成田空港から乗って、関西国際空港に降り、タシケント空港で乗り換えて、イスタンブールに着くものでした。お陰で、なかなか行けないウズベキスタンに一部でも触れる事が出来ました。
ウズベキスタン航空で成田を出発し、昼食は機内食で、「ビーフ」Or「フィシュ」と聞かれ、「フィシュ」を頼んだら、「鰻丼」でした。("うなぎ"は確かに魚ですけど、ウズベキスタン航空でしたから・・・・"何?!"という感じでした。)しかも、しっかりご飯が入っているのに、パンとバター付きでした!!
タシケント空港で乗り換えするさいの審査は、節約の為か電気も点けない暗い場所で、後ろにある韓国・電機メーカーの広告の灯りで審査している感じでした。
旅人・山本は靴を脱がされて、靴にエックス線をかけられたのは始めてでした。そのわりには、ロシア方面に向かう家族連れが青いオウムを鳥籠に入れて機内に持ち込む姿を見ていると、警戒が厳重なのか緩やかなのか、よく分かりません。(東アジアでは鳥インフルエンザが警戒されている時期に)
タシケント空港の売店は、民芸品、お酒を売る小さなお店だけで、商売っ気のない店員だるそうにしていました。
 出発の際、タシケントの気温が30度を超える暑さなのに、出発する機内の空調を切ったままにしていて、サウナのような機内でした。
ウズベキスタンという国は、サービスよりも、まだ、節約を優先する国のようです。

 写真1枚目  成田空港
 写真2枚目  関西国際空港
 写真3枚目  天山山脈北部
 写真4枚目  タシケント空港



2007年06月16日

イスタンブール〜ラプセキ

2日目、朝食はホテルのレストランでお決まりのビュッフェです。トルコのパンは美味しいと評判なので、たくさん食べてみたい気はしましたが、トルコ料理も豊富で、たくさんあるチーズ類や、スープ、日本では高価な果物類(スイカ、プラム、オレンジ、アメリカンチェリー、干しイチジクなど)もあり、そちらを中心に食べてしまいました。
特に、初物のスイカは美味しかったです!・・が、後で、道端で売っているスイカ売りのリヤカーや、トラックを見たところスイカ大玉(本当にデカイやつです。)が1個2トルコリラ(約200円)で売られていました!!
その程度で買えるので、たくさんバイキングに並んでいたのですね。ツアーの最終日にイスタンブールに近づいた時にはスイカ大玉、1個3トルコリラ(約300円)になっていました!!
いかに安いとはいえ、いきなり50%も値段が上がるとは、トルコ、恐るべし。ちなみに、トルコの消費税は18%です。
パンには消費税がかかっていないそうですが、貧富の格差の大きい社会で、一律に18%もかけるのはどうかと思います。
さて、イスタンブールを出て一路、アイワルクまで高速道路、一般道を使い495キロの大移動です。左手にはマルマラ海を眺め、延々と走りました。途中、どんな小さな集落にもモスクがあって、さすがにイスラム圏にいることを実感しました。
昼近くになると、一時、エーゲ海や、ギリシャの島々なども見えます。港町ゲリボルに着くと、ヨーロッパとアジアを分けているダータネルス海峡をフェリーで渡り、ラプセキの町に入ります。
その時に使ったフェリーが古くて小さな船で、昔、自分の父親がやっていた観光汽船の操舵室を思い出し、懐かしく思いました。
このフェリーには節約の為か、車を隙間無く詰め込んで行きました。車両を運搬するような大きな車も有りましたが、運転手も慣れたもので、見事な車庫入れ(?)です。ダータネルス海峡はゲリボルからラプセキまでの30分、クラゲがウジャウジャいて、とても泳げそうにありませんでした。
ラプセキでの昼食は第一次世界大戦・激戦地「ガリポリの戦い」の地を対岸から望む、ホテル「magaron」で食べました。メインディッシュはシーフード料理でしたが、食べてしまって写真はないです(笑)トルコのデザートは上品さが無い、ベタなシロップ漬けか、砂糖のままの甘さで、毎回キツク思いました。
幸い旅行ではこの後、ビュフェ・スタイルが多くて取らなくて済んだのが良かった点です。
「ガリポリの戦い」は第一次世界大戦中、ドイツ側同盟国のオスマン・トルコ帝国とイギリスをはじめ連合軍との激戦地です。連合軍は首都イスタンブール占領を目指しゲリボル半島に上陸しますが、トルコ軍の反撃にあいます。1914年〜1916年まで両軍合わせて、11万人以上の死者を出しました。


 写真1枚目 1泊目のグランド ジェバヒル ホテル
 写真2枚目 エーゲ海
 写真3枚目 ダータネルス海峡を行くフェリー
 写真4枚目 ホテル「magaron」にあるトロイの木馬
 写真5枚目 ホテルにある「ガリポリの戦い」の模型



2007年06月17日

トロイ

トロイというと「トロイの木馬」が有名ですが、今回、訪れるまで自分は詳しい内容を知りませんでした。
改めて資料を読んだり、1955年の映画「ヘレン オブ トロイ」や、2004年のブラット・ピットの「トロイ」のDVDを見て勉強しました。「トロイの木馬」が出てくるトロイ戦争は前12世紀に起こったといわれる史実が伝説化した物語とのことです。
長い間、吟遊詩人ホメロスのフィクションと考えられ、実在の都市とは信じられていませんでした。1873年にトロイは実在すると信じてやまなかったドイツ人シュリーマンによって発掘され、俄かに脚光を浴びることになりました。
彼の発見は素晴らしいものでしたが、彼は発掘の専門家では無かった為に、遺跡の一部を壊したり、財宝をドイツに持ち帰るなど、負の面も持ち合わせていました。
この財宝は、第2次大戦中、ソ連に持ち去られ、現在はロシアが保有しています。
ダータネルス海峡は風が強く、昔の船で通過できるのは1年に5日程度だったそうです。
その為、通過可能な日を待つのがトロイ町で、交通の要衝として発展しました。
最古の居住地トロイTは紀元前3000年頃まで遡り、トロイYの時代になると人口も増え、紀元前1300年頃の地震で滅亡。そして再建されたトロイZaは「トロイ戦争」の舞台で、アキレスなどが登場します。
その後、紀元前700年頃には、遺跡の上に人々が住む村ができて、最後のトロイ\はヘレニズム時代からローマ時代に及ぶ町です。
現在の発掘、調査で全容が明らかにされる事まちたいです。


 写真1枚目 トロイ案内図
 写真2枚目 トロイの城塞跡
 写真3枚目 シュリーマンが財宝を発見した場所
 写真4枚目 修復中のトロイの城塞
 写真5枚目 トロイの木馬
 写真6枚目 トロイの城塞跡



2007年06月17日

エフェソス遺跡

地中海岸有数の規模で残る古代遺跡都市・エフェソスは名前、起源については説が多く、未だハッキリしていませんが、紀元前16〜11世紀にかけて、ギリシャから移住してきた人々が建てた町で、アルテミス神殿を中心に繁栄したもようです。紀元前7世紀にキンメル族に攻撃され、町も神殿も破壊されましたが、再建され、紀元前334年には、アレキサンダー大王の支配下にありました。
その後、紀元前287年には、リシマコス帝の支配下におかれ、現在残っている遺跡のほとんどが彼の時代に作られました。
 現在、発掘・修復されているものは、ピオン山に沿って作られた、観客2万4千人を収容する大劇場。
美しい装飾のハドリアヌス神殿、巨大なセルスス図書館、トラヤヌスの泉、ドミティアン神殿、ヘラクレスの門、クレテス通り、港通りなど、往時の繁栄を容易に想像できる大都市の遺跡でした。
旅人・山本は、これほど大規模に残っているとは思わなくて、その当時の繁栄、建築技術、芸術性の高い彫刻、見事に削られた柱、文様に圧倒されました。
エフェソスはローマ時代の州都で、現在発掘されたものは、まだ全体の10%程度とのことです。これからの発掘を待ちたいです。

 写真1枚目 エフェソス遺跡案内図
 写真2枚目 パシリカ
 写真3枚目 トラヤヌスの泉
 写真4枚目 セルスス図書館
 写真5枚目 セルスス図書館
 写真6枚目 マゼウスとミトリダテスの門
 写真7枚目 大劇場



2007年06月17日

パムッカレと古代都市ヒエラポリス

パムッカレはトルコ語で“綿の城”の意味で、遠くから眺めると、まさにそんな感じでした。台地上部から流れ出るお湯が、長い年月をかけて石灰岩を侵食し、白い段々畑のような大景観を作り上げました。白い奇岩の棚は落差約200m、幅約1,000mの拡がりを持っています。
ひと昔前、日本たばこのポスターやCMに使われ、ご存知の方も多いと思います。たいへん人気のある観光地で、世界遺産にも登録されています。現在、水量枯渇のため、決められた時間に、決められた場所に限り放流しています。場所によっては水が全然行きわたらないのか、白い棚に草が生えている所もありました。白いカスケードの上部には、古代都市ヒエラポリスの遺跡が残っています。紀元前1900年、ペルガモン王エウメネス2世によって作られた都市遺構です。現在、円形劇場は修復中で入る事が出来ませんでした。

写真1枚目 パムッカレ
写真2枚目 パムッカレ
写真3枚目 パムッカレの旅人・山本
写真4枚目 パムッカレ
写真5枚目 ヒエラポリス
写真6枚目 ヒエラポリス



2007年05月18日

シルクロード

コンヤからカッパドキアへは、かつてのシルクロードを走ります。中国の西安までの道のりは8,000キロ、2年間かけて辿り着く道でした。行って帰ってくれば莫大な富を手にしたそうですが、その分、危険も多かったそうです。
現在、目にする風景も、遠い昔と変わりのない、どこまでも同じ様な景色の続く道でした。
場所によっては、昔のシルクロードの宿が残っています。

写真1枚目 シルクロード
写真2枚目 シルクロードの宿
写真3枚目 羊の群れ
写真4枚目 羊の群れ



2007年06月20日

カッパドキア

1985年にユネスコの世界遺産に加えられた「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群」に在るホテルの朝のビュッフェで、自然に取れたままの蜂蜜がテーブルに出されていてビックリしました。
これは初めて見る姿でした。味も格別で、いつもの蜂蜜より濃厚に感じました。
早朝にはカッパドキアから昇る太陽と、谷底から無数に上がって来る気球も眺められます。
旅人・山本は5時に起きて、ホテルの周りを散策、スケッチしてみました。高原だけあって、朝のうちは寒かったです。なんでも、気球に乗る人は夜中の3時に各ホテルから、集まり"空の散歩"をするそうです。高度が高く、意外に早く動いているので、とても寒いそうです。
カッパドキアはトルコ語で「美しい馬の地」という意味ですが、旅人・山本はここで、馬を目にする事はありませんでした。(見た動物は、犬と猫と沢山のハトに、観光用のラクダのみでした)
展望の良い「オスマンさんのトルコアイス屋さん」では、陽気で芸達者なトルコ青年のアイスパフォーマンスに大うけでした。トルコアイス1.5トルコリラ(約150円)モチモチとして、美味しかったです。
カッパドキアの奇岩は「妖精の煙突」と呼ばれ、伝説ではこの煙突の下に妖精が暮らしていたということです。そう考えてもおかしくない造りの奇岩ばかりです。
居住用に掘られた穴も有りますが、ハトの谷と呼ばれる一帯は、その名の通り、ハトを飼っていた穴で、人が住んで居るものより窓が小さいので直ぐに分かります。 



2007年08月10日

ブルーモスク

イスタンブール市内には2000のモスクが在りますが(京都の寺院数よりも多い!)その内の一つ、ブルーモスク(スルタン・アフメットジャミィ)はトルコを代表するモスクです。
14代スルタン、アフメット1世の命により1609年から7年の歳月をかけて建設されました。
通常、トルコのモスクには、1〜4本のトルコ式ミナレット(尖塔)が在りますが、このブルーモスクだけは唯一、6本のミナレットがあります。
トルコの人達は入口脇にある水で体を清めてから、靴を脱ぎ、裸足で入ります。広くて、大きなドーム内部には、アラベスク模様のブルーのタイルが貼られており、このタイルが通称「ブルーモスク」と呼ばれている所以になっています。
ドームからは無数のグラスランプが吊り下げられ、窓のステンドグラスと共に、この世の物とも思われない雰囲気をかもし出しています。
内部では、お祈りをしない人は柵の中に入れません。一部の観光客(日本人も含めて)は中に入って写真を撮ろうとしますが、警備の人に追い返されていました。

 写真1枚目 ブルーモスク入り口
 写真2枚目 ミナレット
 写真3枚目 ブルーモスク内部
 写真4枚目 ブルーモスク内部
 写真5枚目 ブルーモスク



2007年08月08日

トプカプ宮殿

トプカプ宮殿は、世界各国から年間、200 万人以上の見学者が訪れるオスマン・トルコ帝国・歴代スルタンが暮らした宮殿です。
「トプカプ」は大砲の門の意味で、城壁に礼砲を備えていたからだそうです。イスタンブール旧市街・半島の先端部分にあるため、第四庭からの見晴らしが特に良く、ボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾が望める素晴らしい景色を堪能できます。旅人・山本も飽きることなく眺められました。
現在は博物館として公開され、宝物室にはダイヤモンド・エメラルド、ルビーなどの宝物が光り輝いています。 
特に「スプーン売りのダイアモンド」は86カラット、周りにも49個のダイアモンドが廻らされており、その大きさに溜め息がでました。このほかにも、陶磁器を展示する「厨房」(日本の陶器もありました)ハレム、図書館、武器展示などがあります。


写真1枚目 トプカプ宮殿入口
 写真2枚目 トプカプ宮殿模型
 写真3枚目 第四庭から
写真4枚目 城壁跡
 写真5枚目 第二庭の塔
 写真6枚目 展示品



2007年08月15日

グランドバザール

グランドバザールは、トルコ語で「カパル・チャルシュ」と呼ばれています。「屋根付きの市場」という意味です。
オスマン帝国が1453年にビザンツ帝国を滅ぼした後、メフメト2世が建設しました。
現在の姿になったのは18世紀初頭だそうです。グランドバザールは1000店近くが軒を連ねるイスタンブールで最大の市場ですが、現在では完全に観光客用となっています。
イスタンブールに住むガイドさんも、ここで買うことは無いそうです。でも、トルコに来たからには、一度は訪ねて、雰囲気を味わってみたい場所です。
グランドバザールの中は、同じような通りが縦横に交差しているので、迷子にならないように注意が必要ですが、入口から全てに店番が着いていて、その番号に近付く並びを覚えれば、困りません。お店の物を見るのは楽しいですが、グランドバザールに入り同じ商品を買って来たのに、値段が全然違ったという話をよく聞きますので、注意が必要です。いかにも、ありえそうな雰囲気でした(笑)



2005年04月26日

西安の餃子屋

シルクロードスケッチ旅行での話しです。
西安の街は餃子料理で有名ですが、26日の夜に食べた21品の餃子料理の中に、カエル餃子というのが有って、お店の人が前もって説明してくれたからいい様なものの、大のカエル嫌いの自分が知らずに食べてしまったらと、思うと怖くなりました。
カエルが何でもない人には”それがどうしたの?”というレベルでしょうが、カエル餃子と聞いただけで、息が止まりそうになった旅人・山本でした。(苦笑い&冷や汗)
ちなみに、カエル餃子を食べた人によると”甘くてお菓子の様”との事。この店では、他に人参、カボチャ、椎茸、卵、フカヒレ、北京ダック、鶏、真珠などの餃子がありました。



2005年04月27日

物の値段

今回のスケッチ旅行で泊まったホテルは西安・西安賓館、ウルムチ・新彊暇日大酒店、トルファン・緑州ホテル、敦煌・敦煌山荘の四軒ですが、そのうち西安賓館、敦煌山荘は特に豪華で良かったです。
西安賓館は西安市の街中にあって、観光名所の小雁塔の近くと、ロケーションが良く、館内の施設、店舗も充実していて、部屋も広々して高級感がありました。その点では他の中国の大都市の豪華ホテルと変わらないとも言えます。
ただ、敦皇山荘は広大な敷地に中国のお城を模したデザイン(?)で斬新でした。ロケーションも鳴沙山のすぐ近くにあり、庭からも砂漠が眺められ、贅沢でした。しかもこの山荘の宿泊代は日本円で千円程度と、日本ではカプセルホテルにも泊まれない料金でビックリです。
唯一残念なのは土地柄か、バスタブなしでシャワーのみだった事です。
この山荘に昼頃着いて、寝台夜行で風呂に入れなかったぶんの垢を落として、鳴沙山に出かけて帰ったところ、部屋のバスタオルは新しくなり、ベットメイクもされていて、いいサービスだと思いました。ただ、二人部屋の為、バスタオルが二つあったのが一つ分無くなっていて、それをその時に自分がフロントに言わなかったのがいけなかったです。
次の朝、ホテルに自分が盗った様に言われたのが心外でした。
結局、「自分の持ち物を全て調べても構わない」と言い続けたら諦めました。不愉快ではありましたが、施設、料理、サービス、料金共に凄く良くて”もう一度行きたい”と思った旅人・山本です。
 中国ほど物の値段が分からない国はありません。今回、食事は町中のレストランやホテルのレストランでしたわけですが、食事時に頼んだビールは大瓶でだいたい140円でした。(敦皇山荘のレストランは70円でした。)それが西安市のスーパーでは350ミリリットルの缶ビールが28円で売っていて驚かされました。(銘柄は違いますが)日本で物の値段に差があっても、これほど差があるわけはないです。
土産物店では普通に買う人はいなくて、半値程度のディスカウントが当たり前ですが、いったいこ国の物の値段はいくらなんでしょう?原価を考えると夜も眠れなくなってしまう旅人・山本でした。(笑)

 *お酒で物事を考える姿勢にも自分らしさを感じる今日この頃です。*



2005年04月23日

あの中国で・・・?

これも、シルクロードスケッチ旅行での話しです。4月23日に”砂漠のオアシス”トルファンの緑州賓館に泊まった時の事です。このホテルは外見はイスラム調でしゃれていますが、中は古びていて、どこか昔嗅いだことの有る臭いのする所でした。
ここのフロントから夜電話があり、"マッサージはいかがですか?"と尋ねられ、断ると今度は"セックスはいかがですか?"と聞いてきました。今まで海外旅行に十数回行った事があり、ホテルのボーイから誘われたことは有っても、フロントから言われたのは初めてで、更に売春に厳しい共産国の中国での話しなので更に驚きました。
なお、自分は当然断りました。
 同じツアーメイトの中には、フロントからの電話がかかってこなかった人がいて、こちらはこちらで、”何で俺にかかってこないんだ!”と怒ってました。



2006年04月22日

兵馬俑

自分は八年前に、埼玉県三芳町役場の文化財・遺跡の発掘のお手伝いをした事があります。その時は大した発見も出来ませんでしたが、それでも、土を掘る時に"カチッ"という金属的な音がした時は、何らかの石器に当たった可能性が高く、期待で胸が一杯になって夢中で掘り起こしたのを今でも覚えています。
今回、西安郊外にある兵馬俑を見て来ましたが、あれは農民が畑仕事をしていて偶然発見したものだそうです。彼は次々に出てくる等身大の焼き物に、さぞかし驚いたことだと思います。こ
の「世紀の大発見」した農夫は今、公務員になり本を出版しています。自分が訪れた時には、お土産屋でその本を買ってくれた人にサインしていました。
 彼は中国の歴史を掘り起こして、それまでの考えを変えさせると共に、自分の人生も変えさせたようです。
 



2008年03月07日

バンコクにて

1996年11月13〜14日 晴 

 12年前訪れた "ネパール ヒマラヤトレッキング&スケッチ旅行”でのお話しです。
当時、関西国際空港から直行便でカトマンズに入る事も出来ましたが、乗り継ぎの場合、タイに下りる事が出来たので成田からの便に決めました。
行きと帰りの飛行機以外には全く予定が決まっていないスケッチ旅行でしたから、当然、旅も風任せで気ままな旅となりました。タイ・ドムアン空港に夕方の到着でも、何度も訪れている国なので、不安はなく、屋台で60円のタイ風焼飯を食べて、電車でバンコクの中心・ファランポーン駅へ向かいました。
到着後、旅人・山本のバンコクの定宿・ロイヤルホテルは遠い為、今回は断念して、近くの安ホテル(1泊、1400円)にチェックイン ここでは、部屋に入るなりボーイが水を持って来て、ついでにといった感じで「女性はいらないか?」と聞いてきました。
臆病者の自分が、タイで女性を頼むわけも無く「ノーサンキュー!」でした。その夜、明日のネパール到着後の行動を決めようと、池袋の旅行会社から渡されたタイ出発予定時刻のコピーを見て考えていました。ふと、「飛行機の席はどの辺かな?」と思い航空券を眺めていたら、「?????」何とコピーと本物の出発時間が違っているのを発見しました!!本物の出発時間は4時間も早いもので、コピーを信じて空港に行ったら、乗り遅れていました。(汗)これにはビックリでした。気がついてよかったですが、本当にこんな事が有るんだろうかと思いながら、"最初からこれで、この「旅」は大丈夫か?"と不安になった旅人・山本でした。
 翌日のタイ出国審査では、並んでいた列が窓口まであと1人というところで、いきなり「閉鎖」になり、別の列に最初から並ぶことになりました。どうも、その前に並んでいた2人組のタイ人に問題が有ったようです。
散々待ったのですから、他の列に並ぶにしても、交互に前の方に入れてくれるとか、なんらかの措置もなく閉めてしまう審査員を許せないと思いました。

 写真1枚目 ドムアン駅
 写真2枚目 ドムアン駅から見た空港
 写真3枚目 バンコクの安ホテル



2008年03月07日

スワヤンブナート

1996年11月15日 晴  

カトマンズ2日目は観光で、タメル地区から西へ2kmほどの小高い丘にある仏教寺院、スワヤンブナートに歩いて行きました。
ストゥーパには四方を見つめる大きな目が描かれていますが、これはブッダの智慧の目だそうです。この寺院で初めてネパール独特の文化、意匠にじかに触れ、美しいと思いました。ここには、たくさんの野良猿?がいました。
供物を平気で食べていて、"罰当たりな猿だ"と思いましたが、彼らも神の様な扱いを受けているらしく、誰一人、追っ払おうとしませんでした。



2008年03月13日

ダルバール広場

1996年11月15日(2) 晴  
スワヤンブナートの丘を降りてから、カトマンズの中心・ダルバール広場に出かけました。
ダルバール広場は寺院が立ち並ぶ旧王宮前広場で、とても賑やかで、ネパールらしい場所です。寺院の高い基壇に腰掛けて、この旅で初めて絵を描いてみました。
少年2人が寄ってきて、自分が描いている後ろからジーっと絵を見ているので、こちらから語りかけてみました。
彼らはタクシー運転手の息子で、"ネパールが大好き"とのことで、自分の国に誇りを持っていて、何よりだと思いました。
アメリカは嫌いで、イギリスは好きだそうです。(理由も無いので理解できませんでした。)写真を撮って、送ってあげることにして、帰国後に彼らの元に送って上げました。
夕方は、昨日と同じメンバー3人で、チベット料理屋に行きました。今回の注文はチキンカレー、ブラックティで55ルピー(約83円)、ミネラルウオーター18ルピー(約27円)、帰ってからも住人5人と話し込みました。彼らのうち、1人はネパールを出たら、インド、バングラデシュ、中国とまわってから、ネパールに戻り、ネパール第二の都市で、リゾート地のポカラで1ヶ月過すそうで、バックパッカーの精神的な逞しさを感じました。



2008年03月20日

ルクラ

1996年11月16日 晴  
ルクラの飛行場は山の斜面を切り開いた土の滑走路で、山の登り斜面の傾斜でプロペラ機が止まる感じに思えました。
プロペラ機の轟音と、土の滑走路の振動でビビった旅人・山本ですが、ルクラはカトマンズと比べると山間の小さな村で、空気も良く、とても落ち着いた気分になりました。
「ヒマラヤンロッジ」ドミトリーで1泊40ルピー(約60円)なのに、ミネラルウオーター1リットルが70ルピー(約105円)、ペットボトル1本が宿代よりも高いとは驚きでした!!!
宿で落ち着いてから、埼玉のIさんから預かって来た写真を届けにSゲストハウスへ。この写真はネパールに何度も訪れているIさんが前回、ネパールの人達と撮った写真で、自分が渡す為に預かってきたものです。
ネパールの人達にとって、写真は貴重なもので(特に山間部では)届けた所では、皆が集まってきて大騒ぎになりました。とてもフレンドリーで、ミルクティも2杯ご馳走になりました。 
夕方、近くにスケッチに行ったら、近所の子供達が寄ってきて、大騒ぎになりました。その子供達は、最初は引き気味で、警戒しながら自分の周りにいましたが、"面白いオヤジだ"と思った様で、とても人懐っこく、ベタベタ触ってきました。
夜、引き上げる時、それまで、そばで騒いでいた子供達も、それぞれの家に引き上げ、自分もメインストリートを宿に向かいましたが、それまでよりも地元の人達との壁がなくなっているの感じました。



2008年03月22日

トレッキング開始

1996年11月17日 やや曇り 

ルクラを9時45分スタートし、いよいよトレッキング開始です。13時40分、GHATに到着。ここで、埼玉のIさんから預かって来た写真を届けました。この写真はネパールに何度も訪れているIさんが前回、ネパールの人達と撮った写真で、自分が渡す為に預かってきたものです。
ネパールの人達にとって、写真は貴重なもので(特に山間部では)届け先では、皆が集まってきて大騒ぎになりました。ここでもミルクティをご馳走になりました。Iさんのお陰で、この後も、行く先々で直ぐに知り合いが出来て、色々話が聞けて、サービスを受けられて、"最高の餞別"だったとIさんの気持ちを、とてもありがたく感じました。
シェルパと登らず、一人で登る自分には、シェルパ代わりの写真となりました。
14時30分、パグデン着。「TNTER NAI ONAL GUEST HOUSE」の個室泊。ここはフランス人の多い宿でした。夕食はライスカレーとミルクティ。カレーはトマトの入ったカレーでした。
夜、どこかの部屋でマイケル ジャクソンやスティビー ワンダーを大きな音でかけていて呆れました。わざわざ大自然の、清流が聞こえる場所で、聞かなくてもいいのにと思う旅人・山本でした。22時、就寝。
 宿代30ルピー(約45円)

 写真2枚目
 聖なる川「ドゥードゥ・コシ」を渡る旅人・山本です。現地の人に溶け込みやすい様、ヒゲを伸ばして日本を発ちました。その甲斐あってか、西洋人には"ナマステ"(ネパール語で、"こんにちは")と声かけられ、日本人にも"ナマステ"と声かけられました。行く先々で、日本の方から「写真を撮ってもらえますか?」というのを英語で言われて、自分も極力、英語だけにしていると、最後までネパール人だと思っていて、最後にカメラを返す時、「どこから来たんですか?」って日本語で相手に聞くと、相手がビックリして「日本人なんだ!!」というのが面白くて癖になってしまいました(笑)それなのに、肝心のネパール人からは"ハロー"でした(凹○コテッ)どこかが現地の人とは違うんでしょう。



2008年03月23日

ナムチェバザール

1996年11月18日 晴

 10時10分、モンジョ到着。ここには国立公園管理事務所のチェックポストがあって、入山許可証を提示して先に進みます。目の前には三角形の聖なる山「クンビラ」が望めます。ここのガイドによると「クンビラ」が日本の「金毘羅」山になったとのこと、ネパールでは今も神聖な山として、登山を許可されていません。
11時40分、JORSALLE着。JORSALLEを出発して川を渡ると、いよいよナムチェバザールに向かう急登です。この長くて急な登りは、最初から覚悟していましたが、土の急坂は滑りやすく登り難くて、大汗をかきました〜。
14時45
分、標高3、440メートルのシェルパの故郷・ナムチェバザールに到着。いよいよヒマラヤの中に入った感じがしました。ナムチェバザールでもIさんのお届け物で、ミルクティを2杯ご馳走になりました。ここでの宿に決めた「トレックイン」で、汗を流してサッパリしようと、離れになっているシャワールームに入って、蛇口をひねったら、全くお湯が出なくて(水も!)、仕方が無く、服を着て、もう一つある隣のシャワールームへ、こちらはお湯が出ていたのに、だんだん冷たくなっていき、「これじゃ、風邪ひくよ!!」と思っていると、しばらくして温かくなってきたので、気を良くしてシャンプーで頭を洗っていると、お湯がだんだん少なくなり、止まってしまいました(驚愕!)ここは、離れになっていて人がいないし、体は冷えてくるし、頭はシャンプーで泡だらけという姿で困り果てました。結局、バスタオルで泡をぬぐい、服を着て外へ出て、通りかかったオーナーにお湯を出してもらい、再び洗いましたが、「ふざけたことが有るものだ!風邪でもひいたら、どうするんじゃ!」という気分でした。

トレックイン1泊 80ルピー(約120円)
レストランでレモンジュース15ルピー(約22,5円)、ヌードル40ルピー(約60円)、モモ60ルピー(約90円)


1996年11月19日 晴れ
7時30分、起床。昨日はガスで全く展望が無かったですが、朝、起きたら目の前に独特な山体のクワンデ(コンデ・リ)標高6,011メートルがあり、ヒマラヤに居ることを実感しました。この日は高度順応の為、ナムチェバザール近辺の散策をすることにしていて、11時30分、トレックイン出発。15分程度で、周りの景色がどんどん良くなり、アマ・ダブラム(標高6,608メートル)も見えてきました。
11時40分、Phurte着。ミルクティ10ルピー(約15円)を飲んでくつろぎました。古い家に「HOTEL SHOP」と書いてありますが、誰も利用しない感じでした。
 12時00分、Phurte発。12時20分、Tshro着。「KONGTE TEA SHOP」でダルバートとミルクティを頼みました。ダルバートって、豆カレーだと思っていましたが、ここのはイモカレーになっていました。食べ終わって、そのままにしていたら、いきなり2杯目を持ってきたので、サービスかと思って食べましたが、しっかり2杯分の料金を取られました(涙)。ギャル曽根じゃあるまいし、食べる方も、食べる方ですが・・・・ね。(笑!)
ダルバート2皿とミルクティで105ルピー(約157円)
Tshroを出て、ゆっくりナムチェバザールに帰ったら、雲が出てきて、アッと間に隣の家さえ見えなくなりました。まるで、日本の標高の高い山小屋に居るようでした。

 写真はナムチェバザールとクワンデ(コンデ・リ)標高6,011メートル



2008年03月29日

クムジュンのお婆さん

1996年11月20日  晴れ
朝、起きたら頭が重くなっていて、「高山病かな?」という嫌な感じでした。
8時00分、ナムチェバザール出発。
いろいろと分かれている道を適当に登って9時10分にシャンボチェ着。ここでパン(菓子パン2個とあんドーナツ)とミネラルウオーターを買って215ルピー(約322円)ここでのパンは高くて高級品の様です。久しぶりに食べたパンはとても美味しく感じました〜。
ヒマラヤのエベレスト(標高8,848メートル)、アマ・ダブラム(標高6,608メートル)、の見える所でスケッチしていたら、大勢の人が集まってきました。
11時15分、シャンボチェ発。クムジュンの外れの茶屋でブラックティ5ルピー(約7,5円)を頼んで、景色を見ながら、そこのお婆さんと話してみました。何を言っても笑っているだけでしたが、笑顔がとても良かったです。ここのお婆さんに写真を撮ってもらって、「お婆さんも写真を撮って送ってあげる」と言ったら、お婆さんはネパール語も英語も話せるのに、「字が書けないから無理」と言うので、ビックリでした。(識字率が低いと言うのは本当でした。)



2008年04月05日

世界中の旅人

1996年11月21日 晴

 7時30分起床、昨日は頭痛がして不安になりましたが、この日は頭痛もなく9時10分、先に進む事にしました。
12時30分、ドーレ着。ここで昼食のフライドライス ウイズ ミート100ルピー(約150円)ミルクティ10ルピー(約15円)を頼みました。隣にいた西洋のお爺さんも、今日は、ここ止まりだそうで、昼からビールを飲んでいて、羨ましく思いました。いつもの自分なら、ここで飲むところでしょうが、やはり高山病になっている様で頭がボーっとしているので断念(涙)。
ドーレは気持ちのいい場所で、周りの高山も良く見え、リゾート地に居る様でした。何枚かスケッチを描きましたが、14時30分には陽が陰ってきて、急に寒くなりました。さすがに高山です。
この日は珍しく、テント泊で移動している10人の日本人に会って話しをしました。宿でドイツのおじさんと話しをしました、彼は6ヶ月の休みを取り、息子と2人でインド、ネパール、タイ、日本と旅をしている途中だそうです。ドイツ人のイメージと違い、陽気な人でした。日本人では6ヶ月の休み、海外旅行、息子と2人旅、いずれも無理そうな話しで、羨ましい限りです。夜、アメリカのLAに住む夫婦とレストランで隣になったのをきっかけに話しをしました。66歳の奥さんは、日本の高校生7人を毎年ホームステイ先として受け入れているそうです。彼女は絵を教えていて、グレコとか古典的な絵が好きだそうです。こういう"アメリカの母"がいて、日本人を受け入れてくれているとは、ありがたいことだと思いました。この日も20時 就寝



2008年04月11日

マチエルモ

1996年11月23日 晴

 5時30分 起床 軽い頭痛。朝食はミルクティ15ルピー(約22円)とチベッタン ブレット ウイズ ピーナツ35ルピー(約52円)8時10分出発。
11時00分、LUZA着。「KANG TEGA VIW LODE」のおばちゃんに"マチエルモでは「ヒマラヤン ロッジ」に泊まってくれないか?"と言われたので、"あなたの写真を撮らせてくれたら、泊まりますよ。"と言って、オッケーだったので、写真を撮らせてもらいました。何でも、彼女の夫が、そのロッジでコックをしているそうです。
LUZAを出て遭難碑をみつけました。この前の年に日本のパーティが雪崩で遭難した場所です。今は、近くに雪は有りませんでしたが、雪崩が起こっても不思議ではない地形でした。
11時50分、マチエルモ着。彼女との約束の通り「ヒマラヤン ロッジ」に泊まることにしました。昼からは近くでスケッチしていると、オランダから来たカップル、「ヒマラヤン ロッジ」の親爺さん、近くの子供が寄ってきて話しをしていました。昼寝をするにも最高の場所でした。夕食はベジタブル モモ(ネパールの餃子)、ヌードルを頼みました。ここのモモは、今まで食べた中で一番美味しくて、ここに泊まって良かったと思いました。20時、就寝。

 「ヒマラヤン ロッジ」個室 150ルピー(約225円)



2008年04月11日

ゴーキョ・ピーク登頂

1996年11月25日 晴

 7時、起床。頭がボーとしている状態で、不安ながらも「最後の登りなので、やってみよう!!」という感じで、朝食のトースト ウイズ ジャムを食べ、ミルクティ2杯を飲みました。
8時40分、ゴーキョ スタート。登っている間、氷河湖側の展望は良く、自分を励ましてくれている様でした。
9時45分にはついにエベレストもしっかり見えてきて、「登ってきて良かった〜!!」と思うようになりました。
11時30分、ゴーキョ・ピーク(5,360メートル)到着!高山病に悩まされながらも、ピークに到着して、言葉が無かったです。
山頂からは眼下にンゴズンバ氷河、青い色の氷河湖ドゥードゥ・ポカリをはじめ、"世界の屋根"ヒマラヤのチョー・オユー(8,153メートル)、カンチュン(6,089メートル)、エベレスト(8,848メートル)、ローツェ(8,511メートル)、マカルー(8、481メートル)、特徴的な二子の兄弟に見えるチョラツェ(6、440メートル)とタウチェ(6,542メートル)など、申し分ない展望で、高山病を忘れてしまいました(笑)。ここで、昼飯代わりにナムチバザールで買ってきたカレー味のスナックを食べてみましたが、不味くて参りました。もう少し、味にセンスが欲しいと思った旅人・山本です。去りがたかった山頂を13時30分、出発。

写真1枚目 ゴーキョ・ピークからの夕焼け
写真2枚目 ゴーキョ・ピークからの氷河湖ドゥードゥ・ポカリ、ンゴズンバ氷河、チョラツェ(6、440メートル)とタウチェ(6,542メートル)
写真3枚目 ゴーキョ・ピークからのエベレスト
写真4枚目 ゴーキョ・ピークの旅人・山本と後ろにエベレスト



2008年04月19日

まさに一人旅

1996年11月26日 晴

 6時30分、起床。チャパティ ウイズ ジャムとミルクティで朝食をすませ、7時20分にゴーキョをスタート。
8時10分に宿のかみさんにあっという間に追い越されました。かみさんは今日、ドーレまで行くそうで、軽快な足取りで馴れたものです。ナムチバザールへの戻り道は、行きと同じ道を帰っても面白くないので、ドゥードゥ・コシ川の対岸を行くことにしました。
9時00分、分岐を過ぎ、踏み跡を辿って川を渡ろうとましたが、橋も無く、川を飛び石でジャンプしながら渡ろうとしましたが、川原の丸っこくて大きな石に上手く乗れなくて、足を滑らせ落ちて、股下まで見事に濡れてしまいました(涙)
ヒマラヤの雪解け水は冷たくて、凍りつくかと思いました。ブルブル。結局、このままではドゥードゥ・コシを渡れそうもないので、別な渡渉場所を探していたら、本当の分岐を見つけました。たくさんある踏み跡に騙された様です。小さな橋を渡り、さらに先に行くと、再び道に迷いながらも10時05分、ナ到着。
ナを出てから、またまた道に迷い、10時30分、ようやく本道に戻りました。
やはり行きに使った道は展望が良く、トレッカーもたくさん通るので道がしっかりしていて安心ですが、自分が帰りに使った対岸のルートは、踏み跡のハッキリしていない所が有って、良くないと感じました。
11時35分、THARE着。ボイルド ウオーターとミルクティで22ルピー(約33円)
11時50分、THARE発。12時20分、THORE着。「シェルパ ロッジ」で焼きソバ、ミルクティで87ルピー(約130円)13時00分、THORE発。見晴らしとしてはクンビラ方面のみの道でした。
14時50分、コナ着。15時30分「ナマステ ロッジ」到着。この日は、一人のトレッカーにも会いませんでした。"時期的にはハイシーズンでも、これだけ長い時間歩いて、一人にも会わないのは、よほど人気が無いのか"と考えました。
この日、会ったのは牛2頭、牛使いの男性1人、女性4人、いずれも地元の人でした。
宿のドミトリーは30人眠れる広さに自分一人でした。(嬉しい様な、寂しい様な)夕食はエッグ フライドライス、80ルピー(約120円)、ベジタブルスープ、40ルピー(約60円)、ミルクティ10ルピー(約15円)

 今回のベジタブルスープはミルク味で、一番美味しく感じました。
19時就寝。夜中、人が居ないので安心しているのか、ネズミの運動会が賑やかでした。昔、自分が子供の頃、「よく走り回っていたな〜〜。」と懐かしくもありました。この夜は、高山病による頭痛も鼻詰りもなく、不眠状態から開放されて、ネズミも苦になりませんでした。(ただ、1匹だけ、自分のシュラフに当たってきた奴がいて、その時はビックリして目が覚めました。)




2008年04月23日

シャンボチェ空港

1996年11月28日 晴

 6時40分、起床。ようやく高山病の心配も無くなり、ゆっくり眠られる様になりました。
8時05分、クムジュン発。隣町のクンデに寄ってから、ストゥーパの在る所を山の方へ入りました。9時45分、シャンボチェ空港到着。「マウント エベレスト ベーカリー」のパンを食べたくて寄ったのに、パンは1つしか残っていなくて、その残っていたチョコパン、70ルピー(約105円)とコーラ、100ルピー(150円)を店で食べました。このシャンボチェ空港は、土の滑走路で、主にヘリコプターが利用しているそうですが、自分が訪れた時には滑走路の草をヤク3匹が、ゆっくり食べながら移動していて、空港と言うよりも、本格的な牧草地になっていました(笑)


 写真はシャンボチェ空港の草を食べているヤクです。



2008年04月30日

ホテル エベレスト ビュー

1996年11月28日(2) 晴
 11時00分、「ホテル エベレスト ビュー」到着。この旅で、一度は訪れてみたいと思っていたホテルです。
日本のヒマラヤ観光開発株式会社が作ったエベレストが望める高級ホテルで、入口にも日本語で「ようこそ」の看板が立っています。1972年竣工しました。世界最高所(標高3,880m)にあり、12部屋からはエベレストをはじめとするヒマラヤの峰々を眺められるそうです。
旅人・山本はテラスでエベレストを見ながらコーヒーを飲んだだけなので、客室の解説は控えさせていただきます(笑)。ここのコーヒーは小さなポットから注ぐタイプで、3杯分飲めました。
コーヒーとエッグトーストで150ルピー(約225円)。トレッキング中はミルクティが多かったので、久しぶりにのんびりコーヒーを味わいました。ホテルを出て、タムセルク(6,608メートル)を描いていると急に雲が湧き出てきて、思うように描けなくなってしまいました。
13時50分、陽が翳り、寒くなってきたので、ついに断念して宿を探すことにしました。



2008年05月01日

ナムチェバザール滞在

1996年11月28日(2) 晴

 15時00分、ナムチバザール到着。「トレックイン」に入ると、オーナーに「今日はあんただけだから、好きに使っていいよ〜。」と言われました(笑)。
シーズン中なのに、こんなに空いていることもあるのかと思いました。後から、この宿の次男と婚約者の日本人女性が帰ってきて、大騒ぎになりました。何でも来月13日に結婚するそうです。唯一の宿泊客の自分も、その輪に入れてもらって、ポップコーンとか、ニンニクの漬物を頂きながら話しをしました。この二人の馴れ初めは、日本の笠ヶ岳山荘でアルバイトをしていたのがきっかけだそうです。自分も「この年、ヒマラヤ登山訓練の為にテントを担いで笠ヶ岳に登り、山荘前のテントサイトで泊まったので、会っていたんですね!!」という話しになりました。
シェルパの人達は、男の子には父親が家を建ててやり、末の男の子が家を継ぐそうです。女の子には高価な宝石を与えて上げるそうです。「シェルパの人達は子沢山なので大変だろう」と思う旅人・山本でした。ネパールの酒・トンバを随分頂き。20時就寝。

トレックイン ダブルルームで100ルピー(約150円)


1996年11月29日 晴

 6時起床。この日もナムチバザール滞在。昨日の日本人の婚約者に教えてもらった美味しいパン屋に行き、パンとミルクティで100ルピー(約150円)の朝食をとって、ナムチェバザールのスケッチに出掛けました。
12時00分、「THE THIRD POLE」でダルバートとミルクティで70ルピー(約105円)。どこのレストランでも感じるのは注文してから出てくるまで時間が掛かり過ぎる事で、最長待たされたのが1時間15分でした。ネパール時間なのでしょうが、日本だったら断って出て行ってしまうのではないかと思いました。自分はスケッチしたり、メニューを書き写したりして、のんびりしているので、その点、ネパリと変わりませんが(笑)。
ナムチェバザールを上から眺めると、ロッジの多い町で、建築中の物もあり、登山基地として発展している感じでした。自分が泊まっている「トレックイン」のオーナーも17年前には、チベットに牛を売りに行き、帰りには塩とか、物を運び売って生活していたそうです。ここの人達は、皆、ロッジ経営に切り替えているのでしょうか?今日の泊まりも私だけでしたが、18時15分頃、突然4人のパーティとシェルパが来て泊まることになりました。その後、ゾロゾロと仲間が入ってきました。彼らは英語を喋る東洋人で、シンガポールか香港の人かと思います。アイランドピークに団体で行ったそうですが、4人しか登頂できなかったそうです。まとまりの無い集団で、危ないパーティに感じました。
オーナーにバター茶とロキシーを飲ませてもらいました。バター茶は思っていたほど臭みが無く、スープみたいな感じで飲めました。ロキシーは焼酎の様で、かなりキツく感じました。
20時30分、就寝。ロキシーを飲み過ぎたようで、クラクラして寝床につきましたが、頭は熱いのに、足先は冷えていて、寒くてゴアのジャケットを着込んで眠りにつきました。


1996年11月30日 晴

 6時30分、起床。ミルクティ2杯、チーズト−ストで50ルピー(約75円)。
今日はナムチェを降りる日で、オーナーに「また会いましょう!」と握手をして分かれました。ちょうど土曜日のために、バザールが開かれていて、大賑わいでした。食料品、日用雑貨など、あらゆる生活物資が並んでいました。この日のために山奥の村から、買い物に来る人もいます。(バザールは毎週土曜日に開かれています。)
9時50分、下りスタート。



2008年05月13日

カトマンズで登頂祝い

1996年12月1日 晴
 6時00分、起床。朝、チベッタン トースト ウイズバター 35ルピー、ミルクティ2杯、ボイルド ウオーターはタダでした。7時35分、スタート。
8時00分、チュモア着。10時40分、グミラ着。標高が下がって、暖かくなり、運動をしている為に、暑く感じるようになりました。
11時45分、パグデン着。「エバー グリーン ゲストハウス」でエッグ フライド ライス、70ルピー(約105円)とブラックティ2杯、8ルピー×2(約12円)。
12時40分、スタート。高山病の影響か、トレッキングの疲れか、食欲がなくなってきて疲れやすくなったので、2時00分、ゴートの「サガルマータ ロッジ」に入り、すぐに寝てしまいました。

1996年12月2日 晴
 7時00分、起床。チベッタン トースト、ミルクティ2杯。
8時30分スタート。昨日よりは良いものの、やはり調子が悪く、この日も休みながら進む感じになりました。
10時10分、PHIT着。10時55分、スタート。13時00分、トレッキングを始めたルクラに戻りました。ここで、予定よりも早くルクラに着いたので、飛行機の便を変更してカトマンズに帰ることにしました。
20時00就寝。どうも風邪をひいたみたいで、夜中もセキと鼻水に悩まされました。

カトマンズで登頂祝い
1996年12月3日 晴
ロッジを出るときに、宿の女将さんが、自分に白い布をかけてくれました。(ネパールの無事を祈る風習らしいです)ルクラの飛行場では、9時30分発の飛行機でカトマンズに向かう予定でしたが、11時になっても、まだ飛行機が到着していない状態でした。
結局、11時30分に出発して、カトマンズに12時00分に到着。飛行機を降りると、半端な暑さではなく、避暑地から帰ってきたような気分になりました。前回と同じゲストハウスに入り、久しぶりに、ゆっくりシャワーを浴びて、登頂祝いを兼ねて、料亭の様な日本料理「富士」に行き、天重と肉じゃが、ビール(サンミゲルの生)を頼みました。天重はイカが無いのが残念でしたが、ネパールで、エビを食べられ感激しました。味もいい加減なものではなく、最後に、お茶とフルーツが付いてこれで450ルピー(約675円)登頂祝いには最適でした。20時就寝。



2008年05月16日

ボダナート

1996年12月4日(1) 晴

 朝、日本料理「味のシルクロード」でBセット240ルピー(約360円)豪華ですが、さすがに昨日の「富士」ほど本格的な日本料理ではありませんでした。この日はカトマンズ観光でボダナートへ。
三輪車で80ルピー(約120円)でした。
ボダナートには、三重の基壇と高さ約36m直径27mの石造りの仏塔(ストゥーパ)が在り、このネパール最大の仏塔の中心にはブッダのお骨が埋められているそうです。ここにも、四方を見渡すブッダの知恵の目が描かれています。タルチョーがはためき、独自の伝統と歴史を感じる場所でした。
ボダナートはチベット仏教徒の主要な巡礼地です。旅人・山本が訪れた日は、ちょうど中国のプレジデントがカトマンズに来る日だった為、多くの人が騒いでいました。(新聞もテレビも無いので、誰が着ているのか、よく分かりませんでした。)



2008年05月20日

パタン

1996年12月4日(2) 晴
ボダナートを出てからタクシーで150ルピー(約225円)のパタンに向かいました。
パタンはカトマンズの南にある古都です。かつてマッラ王国時代には首都でした。299年にアショーカ王によってつくられた町で、別名「ラリトプル」(美の都)です。
ここで絵を描いていたら、マンダラ アーティストのBIJYA RANAさんという人から声をかけられました。彼の兄は日本でマンダラ画家として生活しているそうです。彼の作品も見せてもらいましたが、繊細で美しい作品でした。
この町では工房や絵描きをよく見かけました。人力車50ルピー(約75円)でカトマンズのタメルに戻り、夜には埼玉のIさんの親友、ネパール人のSさんがゲストハウスに訪ねて来てくれて、レストランでネパールの仲間5人と宴会を開いてくれました。見たことの無いご馳走をたくさん出してくれて、とっても嬉しい夜でした(風邪気味なのと、料理が多すぎて食べきれませんでした。申し訳なかったです)



2008年05月24日

インド製ツーリストバス

1996年12月5日 晴
 5時50分、起床。この日は、ツーリストバスに乗り、7時間かけてネパール第2の都市・ポカラへの移動ですこのインド製のバスがペッタンコの座席で、お尻が痛い上に、走り出して15分で故障し、再び走り出したものの2回目の故障、カトマンズを出る前に3回目の故障と、「このままだと、今日中にポカラに着けないんじゃないの?」という不安にかられました。隣の席のおじさんを見ると、彼も首を振っています(笑)。今度は皆でエンジンを調べていましたが、結局、4回目の故障でカトマンズを出る前にバスをチェンジすることになりました。不幸中の幸いだったのはカトマンズを出る前だったことで、この先でバスが故障となれば、替えは直ぐに来ないでしょうから、それこそ、ポカラに着けなかったかも知れません。



2008年06月04日

ポカラ

1996年12月5日(2) 晴
 代わりに来たバスもインド製で不安では有りましたが、2回の休憩を取り、途中で、ラフティングをする人を眺めながら、14時過ぎに無事にポカラ着きました。(ホント、この日中に辿り着けて良かったです。)
バスの硬い座席と、揺れに参って、カトマンズへの帰りは飛行機で帰ろうと決めた旅人・山本です。ポカラでは、ゆっくり町を歩いて宿を決めようと思っていましたが、バス停では宿の客引きが多くてうんざりでした。
ポカラはカトマンズから西へ200キロ、標高800メートルのネパール第二の都市ですが、都市とはいえカトマンズと全く違うリゾート地です。
ここも土っぽくはありますが、大きなペワ湖があり、ヒマラヤの白い峰々、特に尖った山体が特徴的なマチャプチャレ(6993m)、アンナプルナ南峰(7219m)、ダウラギリ(8167m)が間近に見られる景勝地でした。



2008年06月16日

ポカラの日々

ジュースセンター?
1996年12月6日 晴
 朝、朝食を済ませてから、ポカラ散策に出かけました。途中、喉が渇いて「ジュースセンター」でレモンジュースを頼みましたが、出てきたのが小さなバケツほどの大きさのジュースでビックリしました。「大き過ぎる!!こっちは一人だぞ〜〜。」と思いましたが、仕方が無いので飲みました。
120ルピーですから、たいした値段ではないものの、飲み干すのに時間がかかり、参りました。ポカラではカトマンズの様な騒音やクラクションも無く、小鳥のさえずりが朝夕に聞けて快適でした。

 爆走〜〜!!
1996年12月7日 晴
レイクサイドを歩いていたら、前から5,6頭の水牛が凄い勢いで走ってきました。ビックリして道を避けましたが、1頭の水牛が側溝にハマって自分の前に転がって来た時には、相手が巨体だけにさすがに肝を冷やしました。「あの暴走集団は何だったんだろう?」と今も考えています。野良水牛が誰かに追われたんでしょうか?(笑)
この日は、何度もチベット難民に会った日でした。売り子から腕輪を390ルピーと、アンモナイトを70ルピーで買いました。
昼過ぎに宿の人に送ってもらいサランコットの丘近くまで車で入り、夕暮れのポカラの町や、赤く染まるヒマラヤのマチャプチャレ(6993m)をスケッチしてきました。やはり、ポカラの町よりも標高の高い丘から眺めは素晴らしく、ほれぼれしました〜。こんなことなら、朝一から登りスケッチすれば良かったと思った旅人・山本です。

ポカラのニワトリ
1996年12月8日 晴
 毎朝、聞こえてくるニワトリの鳴き声が「コケコッコー」ではなく、「酔っ払ったよ〜〜〜。」と聞こえるので、可笑しくて仕方が無かったです。朝まで飲んでいるとは、ニワトリもそうとう飲兵衛のようです(笑)
朝食はレストラン「ハングリーアイ」でグリルトーストとブラックティで75ルピー、変な名前のレストランですが、味が美味しくポカラでは何回か訪れました。
午後はゲストハウスの屋上でヒマラヤのマチャプチャレ(6993m)を描きながらゆっくりとした時間をたのしみました。この屋上は気持ちが良くて、お気に入りの場所になった4日間でした。



2008年06月19日

三度、カトマンズへ!

1996年12月9日 晴
いよいよポカラを発つ日となりました。ポカラの空港でもカトマンズに向かう飛行機が1時間遅れるとの事で、自分もすっかりネパール化して(笑)平気になり、空港の前のお店でラーメン、25ルピーを食べて空港に帰ってきました。こんな事ができるのもネパールならではです。
カトマンズに向かう飛行機では40分のフライト時間にサンドイッチと飲み物が出てビックリしました。(ルクラまでの飴1個のイメージがあったもので)カトマンズの空港に到着してから市内までのタクシーの運転手が、日本から来たときの運転手で、これにも驚きました。相手が気付いたかどうかは分かりませんが、自分はよくわかりました。
三度、同じゲストハウスに入りました。宿のスタッフ以外、お客がすっかり変わっていて別な宿に入った感じでした。




2008年06月20日

旅の終わり

1996年12月10日 晴
いよいよネパールを去る日となりました。
4時30分起床、タクシーでカトマンズの空港へ。空港に着くと、アメリカの若い男性が「英語を話せますか?」と聞いてきたので、「少し」と答えると、彼は傍らにいる日本人の老夫婦について「この人達はタックスを払っていないので、手続きをする様に言ってあげて下さい。」との事、その事を知らせてあげました。カトマンズの空港では、今度は濃霧のために飛行機の出発が1時間強遅れ、バンコクに14時50分到着。
バンコクを深夜出発の成田行き飛行機の為、空港を出て、今度はタイ料理を食べに出かけました。空港近くのレストランでイエローカレーとシンハビール、トムヤムクンを頼んでご満悦でした。料理としては、ネパール料理よりもタイ料理の方が合っているようで、とても幸せな気分になりました。
ドムアン空港のファミリーマートで缶コーヒー、12バーツ(約30円)を買い飛行機の出発を待ちましたが、ここで、発着する飛行機を見ていたら、カンタス航空が2度も離陸に失敗するのを見て自分の乗る飛行機は大丈夫なのかと思いました。この後、タイ航空が1度離陸できずに2度目で飛び立ち、カンタス航空は3回目も失敗しました。そして自分の乗るエアインディアは深夜0時40分出発のところ、1時30分にようやく動き出しました。それなのに、この機も滑走路を走ったあと飛び立てずに、一旦、ターミナルに戻るそうで、こんなことが有るのかと、信じられませんでした。結局、エアインディアは機体を交換する事無く、2時15分に離陸、ようやく日本に向けて飛びたちました。
カトマンズからバンコクを経て、長い1日でした。

1996年12月11日 晴
ネパール旅も終わり、成田空港第二ビルに9時10分到着しました。
バンコクではとても不安に思いましたが、エアインディア機が無事日本に来られて良かったです。これにて「ネパール日記」を終了させていただきます。







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