歴史旅

2009年05月21日

岡田記念館/翁島

栃木市屈指の旧家・岡田氏の約500年歴史を学ぶ事が出来る「岡田記念館」です。
 江戸時代・元禄元年(1688)には約4,000平方メートルの同家の屋敷内に陣屋が設けられ、幕末には代官職を代行していました。 
記念館の中には陣屋の他に土蔵三棟(甲冑金高蒔絵、鉄斎書簡、武具などを展示)、栃木市で最初に作られた床屋と酒屋の店舗、自動販売機などが現在も残り、往時を偲ばせてくれます。 

翁島は、22代当主・孝一氏が70歳を迎えて造った隠居用の別荘で、説明を頂いた方によりますと、屋久杉など高価な材木がふんだんに使われており、好みの材料を集めるだけで十年掛かったそうです。 
廊下には長さ六間半、幅三尺、厚さ一寸の欅が使われていて、圧巻でした。 
ここの別荘の浴槽を使って黒木瞳が十年前にロケしたり、この前のNHK「白洲次郎」の物語でも戦時中の撮影に使われたそうです。庭は千坪あります。

 
岡田記念館
 栃木市嘉右衛門町1-12
連絡先 0282ー22−0001 



2008年10月16日

設楽ヶ原の合戦場(長篠の戦い)跡

天正3年(1575)、徳川方500人で守る長篠城を、武田軍1万5000で囲み、落せないままの状態で、織田・徳川連合軍が3万8000の兵が設楽ヶ原に布陣します。
勝頼は、重臣達の意見を聞かずに決戦を決め、ついに5月21日、設楽ヶ原の連吾川を挟んで、織田・徳川連合軍と、武田軍との戦闘(設楽ヶ原の合戦)が始まります。世に言う合戦の歴史を変えた「信長の三段撃ち」の現場です。
織田の鉄砲隊と武田の騎馬隊が激突し、信長側が馬防柵に守られた場所に三段構えの鉄砲隊を配置して、武田軍を粉砕したと言われています。ただ、近年、研究が進み、今までの定説は覆されているようです。
この前、テレビでは武田の騎馬隊は存在していなくて、織田の鉄砲三段撃ちも無かったという説を説いていました。
武田の騎馬隊については、日本の馬はロバ位の大きさで、駆けても、人が走る速度とあまり変わらなかったと言われ、馬の周りには槍などを持った徒歩と共に進んだ部隊でした。
鉄砲隊についても、当時の火縄銃の射程距離、弾込めに要する時間で三段撃ちするのは無理だったようです。(撃ち手をそのままにして、弾込め役などを分業した四段撃ちは可能だそうです)

 鉄砲による三段撃ちの戦いでなかったとすると、武田軍の死者1万余に対して、鉄砲で圧倒的に優位だったはずの織田・徳川軍の被害6千余という数字はうなずけますし、鉄砲1000丁(一説には3000丁の説もあります)の一斉射撃の合戦場跡から、今のところ砲弾が2発しか発見されていないのも分かります。やはり、1000丁の鉄砲音に馬が驚き、馬防柵に阻まれて、思うように武田軍が戦えなくて敗退したのでしょうか?では、なぜ、信長の思う壺になって、武田軍がわざわざ馬防柵に全軍で突っ込んで行ったのか?馬防柵の無い場所へ移動して戦えば良かったと思うのですが・・・。一説には、織田信長が「尾張軍は弱い」と逆宣伝していた為に、勝頼が信じて舐めてかかってしまったと言われていますが、疑問です。



2008年08月21日

新居関所跡

新居関所は、安政5年(1858年)に完成した現存する唯一の関所建物です。
徳川家康が江戸防衛のため、街道の要所に関所を造りました。関所では、特に武器(鉄砲)や、江戸に人質として置いている大名の奥方が逃げないように厳しく監視しました。
最初の新居(今切)関所は1600年に開設されましたが、地震や津波で2回移転して、現在の場所に建てられました。明治に入り全国の関所は廃止されましたが、この関所は、小学校や役場として利用されて解体を免れたそうです。現在でも面番所や女改め長屋、渡船場(復元)などを見られます。

新居関所
 住所
 〒431-0302
静岡県湖西市新居町新居1227番地の5

開館時間  午前9時から午後4時30分
 休館日  毎週月曜日(休日の場合は開館・8月は無休)、年末年始
 新居関所史料館が隣接しています。



2008年08月10日

豪徳寺

東京都世田谷区にある曹洞宗の大きなお寺です。一説には"招き猫発祥の地"とされています。
以前、紹介した浅草の今戸神社とは違い、こちらの場合は、彦根藩主・井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避ける事が出来たことに由来しています。後に井伊家御菩提所となりました。
このお寺には招き猫を祀る「招猫殿」があり、招猫殿の横には、たくさんの招き猫が奉納されていました。
三重の塔にも招き猫の彫り物も在りました。文明12年(1480年)吉良政忠が伯母・弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだのが始まりで、天正18年(1590年)の小田原の役で廃城となった世田谷城の主要部があった場所だそうです。
井伊家というと、幕末の「安政の大獄」「桜田門外の変」の井伊直弼が有名ですが、自分は苦しい時代の家康をサポートした徳川四天王の一人、井伊直政の方が好きです。彼は激しい性格で、戦場でも陣地で指揮をせず、先陣を切って戦い、相手から「井伊の赤鬼」と言われ恐れられていました。一軍の将としては問題がありますが、部下はさぞかし勇気付けられたと思います。


 豪徳寺
 東京都世田谷区豪徳寺2-24



2008年08月08日

松蔭神社

長州藩士で、思想家、教育者の吉田松蔭を祭る神社です。
明治維新の8年前に亡くなっていても、精神的指導者として重要な位置に在ります。もし松蔭が山口県に生まれず、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、井上馨、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎などを松下村塾で教育しなければ、日本そのものが違う歴史になっていたかも知れません。
「安政の大獄」で江戸の伝馬町牢屋敷に送られ安政6年(1859年)10月27日斬刑されました。享年30。
 遺骸を、塾生だった高杉晋作、伊藤博文らが、南千住回向院から現在の神社に埋葬しました。(神社一帯は江戸時代の長州藩主の別邸があったところです。)松蔭の墓は大きな物ではなく、他の同時期の同士と同じ大きさで、その点にも松蔭の精神を感じました。
 現在の社殿は没後50年祭を祈念して昭和2年に造営されました。
境内には松下村塾を再現した建物が在り、そのみすぼらしい小屋(失礼!)から、優秀な人物を多数輩出したことを考えると、うわべの大きさとか、豪華さではなく、精神的な質の問題だと思いました。


 松蔭神社
 交通:東急世田谷線松陰神社前駅下車
 東京都世田谷区若林4丁目35-1



2008年08月02日

回向院・鼠小僧次郎吉墓

回向院は、明暦3 (1657) 年に開かれた浄土宗の寺院です。この年の1月に起きた「振袖火事」で亡くなった無縁の人々を、将軍家綱の命により手厚く葬ったのが始まりだそうです。
この寺院は相撲との関わりが深く、明和5(1768)年から境内で勧進相撲が開かれ、明治に「両国国技館」できるまで続きました。
境内には江戸時代のヒーロー、鼠小僧次郎吉墓の墓があり、長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りにしてギャンブルする人や、合格祈願に来る受験生がいるそうで、そのために削れる墓が手前に置いてありました。本当にあやかりたい人は、本物の墓を削りたいのではないでしょうか?鼠小僧は、大名屋敷から千両箱を盗み、貧しい長屋に小判をそっと置いたといわれていますが、最後には捕まり処刑されてしまいました。



2008年07月18日

明治丸

東京海洋大学越中島キャンパスに保存されている帆付汽船「明治丸」です。
自分は「明治丸」のことを詳しく知りませんでしたが、越中島から東京駅方面を散策中に偶然見つけました。
この船は公開されている曜日が決まっていて、船内も自分勝手に見る事はできず、ボランティアの方に説明をしてもらいながら船内を歩く観覧方式でした。
明治丸は明治7年(1874)に灯台建造と灯台巡視船としてイギリスで建造されました。貴賓室があり、明治天皇が東北・北海道地方巡幸の際に乗船しています。現在の「海の日」は、明治天皇が巡行を終え横浜に帰着した日を記念したものだそうです。
明治29年からは商船学校に譲渡され係留練習帆船として使用されました。太平洋戦争後はアメリカ軍に接収され、船内でダンスパーティなどを催していたそうですが、船体にヒビが入り座礁して日本政府に返されました。

 現存するわが国最古の鉄船で、重要文化財指定されています。

 公開日
 1月5日〜12月27日の火曜日と木曜日、第一及び第三土曜日、火曜日と木曜日が祝日に当たった場合は公開しません。

 公開時間
 10:00〜15:00(入場は14:30まで)

 場 所
 東京海洋大学越中島キャンパス内  東京都江東区越中島2−1−6

 問い合わせ 東京海洋大学越中島キャンパス事務室管理係 
  TEL03-5245-7308



2008年07月11日

沖田総司終焉の地

浅草にある今戸神社の境内に「沖田総司終焉之地」の碑があります。
沖田総司といえば、泣く子も黙る「新選組」の美剣士です。一説には、JR千駄ヶ谷駅近くの納屋説というのもありますが、そちらには説明板も、碑もたっていません。京都から江戸に引き上げた頃の総司は、肺の病がかなり進んでおり、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていましたが、官軍が江戸に近づいた為、今戸八幡(現在の今戸神社)に移りました。ここで松本良順は総司他の患者の治療にあたりました。

この神社は「招き猫」発祥の神社だそうで、記念碑の他にも、社殿にしっかり巨大な招き猫が2体鎮座してました。「招き猫」発祥についても、各地に残っているそうです。



2008年07月08日

河越夜戦跡(川越夜戦跡の石碑)

川越の東明寺に行ってきました。この寺の境内は河越夜戦のあった場所で、境内に石碑が建っています。
この戦いは、厳島の戦い、桶狭間戦いと並んで、日本の三大奇襲戦の一つに数えられています。
一部にはこの3つの戦いを日本三大夜戦と紹介している記事を見かけますが、桶狭間戦いは織田信長による日中の奇襲なので、あたらないと思う旅人・山本です。
河越夜戦(川越夜戦)は、天文14年9月26日(1545年)、関東管領山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍約80,000人の大軍で、約3,000人で篭る河越城(北条綱成)を包囲します。小田原から援軍のために北条氏康が約8,000人の兵を率いて到着しますが、戦況は数ヵ月間膠着状態でした、氏康は上杉軍に対して偽りの降伏を申し出ます。
これにより、油断した連合軍に天文15年4月20日(1546年)の夜、奇襲をかけました。
上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉家当主の上杉朝定まで討ち死しました。
城からは綱成が呼応して足利晴氏の陣に攻め込み総崩れとなりました。氏康は兵士たちに鎧兜を脱いで白い紙を付けさせ身軽にし、敵を討っても首を取らない様に命じていましたので、動きがよく大勝利しました。この一戦により小田原の北条氏は後に関東を制覇することになりました。

 川越夜戦跡の石碑
 埼玉県川越市志多町  東明寺境内



2008年01月07日

景徳院(武田氏滅亡の地)

景徳院は,平安時代から続いた甲斐源氏の名門・武田家終焉の地です。
武田氏滅亡後、徳川家康が勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うために建立しました。
境内には勝頼、信勝、勝頼夫人がそれぞれ自害したとされる生害石と墓所が残されています。
天保年間の火災で主要伽藍を焼失し、類焼を逃れた山門が山梨県指定文化財となっています。
2006年には、「武田勝頼の墓」保存修復中、勝頼の戒名などが書き込まれた経石が発見され、地下に埋納施設が存在する可能性が出てきました。今後の発掘調査が待たれます。

 景徳院
 山梨県甲州市大和町田野
 (武田勝頼生害石 写真5枚目、武田勝頼墓 写真4枚目中央)



 鳥居畑古戦場(写真8枚目)

 天正10年(1583年)3月、織田信長・徳川家康連合軍が武田領内に攻め込むと、武田勝頼は本拠となっていた新府城を捨て、家臣の小山田信茂の誘いに乗り、大月の岩殿城に向かいますが、信茂の謀反に遭い、行く場所を無くして天目山へと敗走します。
当初は1万近かった軍勢も離脱者が続き、3月11日、この付近では僧二人を加えて、計54人となっていました。
そのなかには勝頼夫人の侍女16人が含まれていて、すでに戦闘できる状態ではありません。
この鳥居畑で柵作り、織田軍と戦い武田軍最期の戦いとなりました。侍女達は鳥居畑古戦場碑近くの姫ヶ淵で自決し、現在は勝頼夫人(北条氏)と16人の侍女を描いたレリーフが建っています。



 四郎作古戦場(写真9枚目)

 武田家最期の戦い「鳥居畑古戦場」より100mほど甲府寄りにある「四郎作古戦場跡」です。武田軍の小宮山内膳らが前衛となり、織田・徳川軍と戦いました。小宮山内膳友晴という人は、あまりに実直な人で、武田勝頼に誤解され幽閉の身だったそうですが、主人の危難を聞き「武士道に背くわけにはいかない」と勝頼のもとに馳せ参じて奮戦し、殉死しました。岩殿城の小山田信茂の様に武田勝頼を自分の城に招きながら、土壇場で裏切り、銃口を向けた家臣や、離反者が続出した武田家にあって、内膳のような武士がいたことは、勝頼にとって、せめてもの救いでした。「史跡四郎作古戦場」の碑が建っているのみですが、考えさせられる場所でした。



2007年12月23日

本興寺

静岡県湖西市(浜名湖の西・愛知県境)にある本興寺です。
1383年(永徳3)の創建とされる法華宗の古刹です。本堂は建立年代不詳で、天文21年(1552)に修復が行なわれ、和、唐、天竺の三様式がとり込まれた建物となっています。
奥書院と惣門(山門)は1674年に吉田城より移築されたもので、その奥書院にある谷文晁(テレビ東京「なんでも鑑定団」で一般的にも有名になりました。)の壁画や襖絵が15面あり、別名「文晁寺」とも呼ばれています。年代ものですから、仕方がないと思いますが、保存状態が気になりました。出来れば湿度管理が行き届いた博物館や美術館に保管した方が作品の為にはいいのかも知れません。
奥書院の庭は小堀遠州が手掛けた池泉鑑賞式の庭園です。

 本興寺
 国重要文化財指定
 住所 〒431-0431 静岡県湖西市鷲津384番地
 連絡先 053-576-0054
交通 JR東海道線鷲津駅下車西へ徒歩10分、遠鉄バス本興寺前下車1分。



2007年11月17日

足利学校

日本最古の最高学府「足利学校」です。隆盛期の天文年間(1532〜1554)には全国から学徒3000人が集まり、儒学、医学、兵学などの授業が行われたと、宣教師フランシスコ=ザビエルによってインドのゴア政庁に報告されていました。
現在は、足利学校は足利市昌平町にありますが、かつては、渡良瀬川の近く小字十念寺にあったそうです。
徳川の世では、足利学校は郷学として近在の村からも豊かな家の子弟たちが漢学を学んでいました。
1872年(明治5)廃校になりいまたが、1990年に江戸中期の姿が復原されました。現在も多数の古文書(国宝・重要文化財)が収蔵されています。
毎年、11月23日には孔子を祀る儀式が催されています。


 栃木県足利市昌平町2338
交通 JR足利駅徒歩10分。または東武鉄道足利市駅徒歩15分
 開館時間 9〜16時(4〜9月は〜16時30分)第3月曜(祝日の場合は翌日)、1・2月は第3月・火曜
 連絡先 TEL:0284-41-2655

 写真1枚目 孔子廟
 写真2枚目 孔子廟 小野篁像
 写真3枚目 南庭園
 写真4枚目 孔子像
 写真5枚目 足利学校



2007年11月01日

川中島古戦場

武田信玄と上杉謙信による12年間、5度の川中島合戦のうち、最も激しい戦闘が起こった4回目の合戦跡です。現在は「八幡原史跡公園」として整備されています。この合戦は、永禄4(1561)年に起こります。同年8月、上杉謙信は海津城の南の妻女山に布陣し、武田信玄は8月24日に川中島に布陣。8月29日に海津城に入城。9月9日、武田軍は山本勘助発案とされる「啄木鳥戦法」の為、高坂昌信らの別働隊が上杉本陣夜襲攻撃に向かいます。信玄本隊は海津城を出て八幡原に布陣しますが、上杉謙信は武田軍の攻撃を察知し、妻女山を下り八幡原に進軍、9月10日早朝から戦闘が起こります。別働隊を割いた武田軍は数に優る上杉軍に押され、信玄の本陣に上杉謙信が切り込み、両雄が一騎打ちする事となりました。謙信は3太刀しますが、信玄は鉄製の軍扇でかわし、難を逃れました。この軍扇を後で調べたところ7箇所に傷があり「3太刀7太刀」の謂れとなりました。
当初は押されていた武田軍も、妻女山に向かった別働隊が戦場に駆け付け、優勢となります。結果、共に膨大な数の戦死者を出し痛み訳となりました。
この後、第5回の川中島合戦が起こりますが、大きな闘いにはならず、この歴史に残る川中島合戦も終了しました。


 八幡原史跡公園
 (長野市博物館)
 住所 長野県長野市小島田町1384-1
交通 JR「長野駅」から「松代行」川中島バス約20分「八幡原」下車


 「執念の石」
 武田信玄と上杉謙信の一騎打ち近くに在る石です。本陣に切り込んだ謙信に対して、信玄の家臣・原大隅が信玄の槍で馬上の謙信を突こうとしましたが、謙信に当たらず、馬に当たり、そのため馬は一目散に走り去ったそうです。信玄の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした悔しさで、傍らにあった石を槍で突き通したそうです。



2007年10月20日

北国街道 海野宿 

古い宿場の雰囲気をよく残している海野宿です。街道に沿って95軒の民家が並び、このうち55棟は宿場時代の建物だそうです。(うち25棟は2階建。出桁造りは7棟)旅人・山本は海野宿がこれほど大規模(明治に造られた建物も含めて)に残されているとは思わなくて、宿場に着いたときには、タイムスリップした様で、とても嬉しくなりました。うだつの在る建物も多く見る事が出来ました。本陣については門長屋の一部を残すのみで少し残念でした。
海野宿は、明治時代になり「宿場町から養蚕の町」となります。養蚕時代の模様も含め、宿場町の変遷を元旅籠だった海野宿歴史民族資料館で見る事が出来ます。

 昭和62年(1987)4月28日、「重要伝統的建造物群保存地区」指定。
 海野宿歴史民族資料館
 〒389ー05 長野県小県郡等東御市本海野 
0268-64-1000 



2007年09月14日

元寇防塁

元寇防塁は、1274年(文永11)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府が1276年(建治2)に博多湾の海岸線に築いた石垣で、博多湾の今津から香椎まで20kmにわたって築かれました。
今回、訪ねた西新地区の防塁は、砂丘の上に粘土を敷くという基盤工事をしていて、高さ2、5〜3メートルのものだったそうですが、現在は埋まっていて3メートルはありません。昭和6年国の史跡に指定され、今津、生の松原、西新の3か所が整備されて見学できるようになっています。
この時の元寇は、神風(台風)の為に大損害を受けて、撤退しましたが、それ以来、日本人は"日本は神に守られた国"という思想を持ってしまい、太平洋戦争で、神風特攻隊という、無謀な作戦で、若い兵士をみすみす死に追いやる過ちを犯す結果となりました。
軍首脳部に太平洋戦争で勝利を得られるだけの緻密で明確な作戦がないのなら、早期に終戦すべきだったと思います。原爆投下、B29による本土空襲、ソ連参戦、中国残留孤児問題、シベリア抑留などの悲劇が、もっと最小限で抑えられたと思います。(話がそれました。)

 早良区西新七丁目(防塁前)停留所から徒歩5分 



2007年09月13日

大宰府天満宮
 

学問の神様・菅原道真が祀られている太宰府天満宮です。天神様のお膝元として、初詣には全国から毎年200万人以上の参詣者があるそうです。旅人・山本は、福岡に旅すること7回目にして、ようやく訪ねる事ができました。
菅原道真は901年に藤原時平らの陰謀により筑前国の大宰府に左遷させられ、903年に死去しました。その遺骸を都まで搬送しようとしたところ、牛車を曳いていた牛が動かなくなりました。それを道真の遺志によるものと考え、そこに墓が作られました。その後、京では疫病や御所に雷が落ちるなど不吉なことが続き「道真の祟り」と恐れられました。
祟りを鎮めるため919年に道真の墓所の上に社殿を建立しました。これが太宰府天満宮の始まりで、京には北野天満宮が造られました。
 拝殿の手前にある「飛梅」は、菅原道真が京都から左遷されたとき、道真を慕って京都から飛んできたとされる梅です。「東風ふかば におひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という有名な歌はその伝説を詠んだものです。


 太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を「三天神」と呼びます。
  太宰府天満宮
 住 所  福岡県太宰府市宰府4−7−1
 電 話  092-922-8225 
 FAX  092-921-1010 

 



2007年06月07日

日野宿本陣 

日野宿本陣は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣です。
嘉永2年(1849)の大火で焼失後建てられ、元治元年(1864)12月から使用されました。
幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎の本陣兼自宅です。
現在の建物は、蕎麦屋になっていたものを日野市が買取り、日野本陣として整備して一般公開されています。同じ敷地内には佐藤道場があり、のちに新選組のメンバーになる近藤勇を始め、土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎などが稽古に励みました。この佐藤家には、土方歳三の姉が嫁いでいます。
 旅人・山本が訪ねたおり、日野本陣ガイドの方から話が聞けたので、「この本陣の襖に描かれている絵や文字が印刷なのはどうしてですか?」と伺ったら、「NHK大河ドラマ「新選組!」をロケしている時は本物でしたが、その後、めくれ気味になってしまって、観覧客がその剥がれかけた絵や、文字の裏には何があるのだろうと、さらにめくるので、大きく剥れ展示が難しくなり、レプリカに変えた」そうです。心ない人の行為で、せっかくの文化財が傷んで使えなくなったり、見られないのは残念なことです。
ガイドさんによると、宝泉寺には、新選組井上源三郎の記念碑と墓がありますが、実際には「遺骨」は入ってないとの事でした。井上源三郎が、淀千両松の戦いで戦死したとき、一緒にいた十二歳の甥・泰助は源三郎の首と刀を、その場近くのお寺の前に埋めたそうです。その埋めた場所も地図に書いてあるそうですが、見付からなくて、今も遺骨と遺品を捜しているそうです。


 日野本陣 (日野市指定文化財)
 開館時間 9:00〜17:00(最終入館16:30)
 休館日  月曜日(休日の場合は翌日)
 交通   中央線日野駅より徒歩12分
お問合せ 電話042−583−5100
 



2007年05月06日

吉見百穴   国指定史跡

5月5日、吉見百穴に行ってきました。横穴数も219と予想以上に規模が大きくて驚きました。
この穴は当初、土蜘蛛人(コロボックル)の住居と考えられていましたが、現在は古墳時代後期、死者を埋葬する墓穴として掘られた物である事が定説になっています。
地元の人によると、昔は、この穴に入る事ができたそうですが、ある事件が起こってから、手すりが付けられ、今は入る事ができません。太平洋戦争末期には左右500メートルにわたり巨大な洞窟が掘られ、軍事工場として中島飛行機の大宮工場エンジン製造部門が移転、生産する予定でしたが、終戦となり実際には生産活動ができませんでした。その洞窟には入ることができ、その大きさが実感できました。外は暑いのに中はヒンヤリして、天然クーラーでした。
 今回、この地を訪れてみて、初めて「百穴温泉」という温泉が在ることを知りました。

 吉見百穴   国指定史跡
 埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324
 吉見百穴管理事務所  電話 0493−54−4541
 入場料 300円



2007年04月14日

さきたま古墳群

行田市大字埼玉(さきたま)に在る「さきたま古墳群」に行って来ました。埼玉県の名前の由来となった9基の古墳群です。
5世紀の終わりから7世紀はじめ頃までに作られたそうです。旅人・山本は埼玉県に住んでいながら、古墳群の存在を知ったのも5年前と、遅きに失しました。遅まきながら、「さきたま古墳群」のある、「さきたま風土記の丘」に行ってきました。
稲荷山古墳の上にルビーと共に上りましたが、この古墳からは、昭和43年の発掘で「金錯銘鉄剣」など多くの遺物が出土して国宝になりました。現在も後円墳上には埋葬施設があります。二子山古墳の柵の前には「めざせ世界遺産!」の横断幕もありましたが、順番的にはまだ無理かと思いました。

 写真2枚目の丸墓山古墳は日本最大の円墳です。豊臣秀吉の小田原攻めのおり、近くの忍城も石田三成による水攻めをうけますが、少数の兵で守り抜き名城と呼ばれるようになりました。この時、三成が本陣を張ったのが、この古墳でした。

 写真3枚目の二子山古墳は武蔵国で最大の前方後円墳です。


 埼玉県行田市大字埼玉4834  
 高崎線・吹上駅下車 朝日バス「佐間径由行田車庫」行き「産業道路」下車徒歩15分
 埼玉県立さきたま史跡の博物館  電話048−559−1111
 開園時間 午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
 休園日 月曜日、年末年始

 料金 
 一般200円  大学・高校100円 中学・小学生、65歳以上無料



2007年02月24日

牛天神(北野神社)

東京都文京区の北野神社の梅が満開になりました。この北野神社は"牛天神"と呼ばれて、地元の人に親しまれています。牛天神の名の由来は、この神社の境内にある牛に似た岩に触れて願うと、願いが叶うといわれている為で、鎌倉時代に源頼朝が休憩の為、この岩に腰掛け、その夜、夢に天神様が現れ二つの夢が叶ったそうです。



2007年02月21日

旧東海道・品川宿

日本橋を出て2里、最初の宿場町品川です。江戸時代・品川宿の賑わいは東海道一だったそうですが、かつての面影は看板やお寺に残るのみとなっています。ただ、旧東海道のままの道幅3間(5.5メートル)で、江戸の状況が良く伝わってきます。
最近の「五街道ウォーク」「街道歩き」ブームの影響で(自分もそうですが)、ガイドブックや地図を片手に歩くご夫婦や、団体によく会いました。現在、品川宿本陣跡は聖跡公園(写真3枚目)となっています。
 品川駅近くにある「品達」7軒による味のテーマパーク(写真5枚目)ですが、こちらはどの店も行列が出来ていました。

 品川宿 天保14年(1843)
 本陣1 脇本陣2 旅籠屋93 
 家数1、561 人口6,890



2007年02月12日

沢庵和尚

品川区に在る東海寺墓地の沢庵和尚の墓を訪ねてきました。
 沢庵和尚は但馬の国の下級武士に生まれて、10歳で出家し、沢庵漬けを発案した人ですが、名称は「保存食のたくわえ漬け」が、たくあん漬けに転訛したそうです。どうしてもこのお墓を訪ねたかったのは、その墓石で、台石の上に乗った直径1メートル、高さ50センチの自然石で、文字一つ書かれていないものです。
この石を沢庵漬の重石に見立てる説もありますが、漬物石にしては大きいし、幕府の権力に一歩も譲らなかった人物ですから、無心の心とか、無の世界を希望してその石を墓石にしたのではないかと思っている旅人・山本です。



2007年02月06日

文京区・維新散歩

小石川の伝通院(写真1枚目)は徳川家康の生母・於大の方の菩提寺で、千姫、清河八郎、柴田錬三郎などの墓があります。ここに葬られている清河八郎も興味深い人だと思います。彼は昌平黌に学び、千葉周作に剣の指南を受け、のちに幕府に建言して浪士組を作り尊王攘夷に奔走しますが、幕吏佐々木只三郎に暗殺されてしまいます。ここは、浪士隊・後の新撰組が京都に向かう時の集合場所でした。(写真2枚目浪士隊結成の看板)

 今井坂は文京区春日にある小さな坂道です。この坂の中ほどには徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜終焉の地があります。彼は頭が良くて切れる人だったそうですが、頭が良すぎたのか勇猛果敢に向かっていくタイプではなかったので、大政奉還、江戸幕府最後の将軍の当事者になってしまいました。
彼が鳥羽伏見の戦いの後、大阪・天保山沖から真っ先に逃げる事がなければ、明治維新はあれだけの短期間で終わらなかったでしょうし、泥沼の内戦は続いていたかもしれないので、逆に評価される事かも知れません。立場的には、官軍最大の敵対勢力だった、徳川幕府将軍の彼が素早く降った為に、会津藩が悲劇的でした。徳川慶喜終焉の地看板(写真3枚目)徳川慶喜終焉の地(写真4枚目) 



2006年12月05日

四谷 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)

12月5日に四谷、於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)に行ってきました。「四谷怪談」お岩様ゆかりの地ということで、怖くもありましたが、実際の於岩様とお岩は全くの無関係で、「東海道四谷怪談」の作者・鶴屋南北が有名な於岩様の名前を借りただけでした。自分の勉強不足もさることながら、あまりの作り話の広がりように驚きました。
現在も映画、ドラマ、芝居で「四谷怪談」を取り上げるさいには必ず役者、スタッフがお参りに訪れるこの神社は古い社で、表通りから外れ静かに佇んでいました。
 於岩稲荷田宮神社では家内安全、商売繁盛、無病息災、開運、災難よけにご利益があるそうです。



2006年12月08日

小石川後楽園

12月8日、曇りの天気でしたが、水戸黄門ゆかりの大名庭園「小石川後楽園」に行って来ました。"後楽園紅葉祭り"は終わっても、もみじはまだまだ八分で紅葉も充分楽しめました。冬桜も咲き、回遊式の大泉水にたくさんのカモが遊び、時々もみじ吹雪き(?)が舞って、楽しませてもらいました。
この庭園は水戸藩初代頼房が造り、二代光國の代に完成した庭園だそうです。これだけ良い庭園なのに、東京ドーム、東京ドームホテル、文京区役所、トヨタ東京本社と景観を損ねる建物が目に入り残念でした。

 住所、東京都文京区後楽1-6-6
開園時間、9:00〜17:00(16:30まで)
休園日、年末年始入園
 料金、一般300円65歳以上150円



忍野八海

忍野村一帯はその昔、山中湖とつながった巨大な宇津湖の湖底だったそうです。
延暦19(800)年の富士山大噴火で、溶岩流により宇津湖は山中湖と忍野湖に分かれてしまいました。その後、忍野湖は桂川の水となって流れ、8つの湧泉池(湧池、濁池、鏡池、銚子池、菖蒲池、底抜池、お釜池、出口池)を残して干上がり、現在の忍野八海となったそうです。湧き水に手を入れられる場所がありましたが、富士山に降った雨や積もった雪が、溶岩の間で約80年の歳月をかけてろ過されたためでしょうか、冷たく澄みきっていました。水割とか、珈琲を沸かしたら、さぞかし美味しいだろうと思う旅人・山本でした〜。

 昭和60年、全国名水百選に選定。新富岳百景選定地、
 昭和9年5月1日国の天然記念物にも指定されています。 

1987年、テレビ朝日系番組取材で潜水したダイバー2人が死亡しています。

 忍野八海
 山梨県南都留郡忍野村忍草
 富士急行富士吉田駅下車、富士急バスお宮橋経由内野行き20分、忍野八海入口バス停下車、徒歩5分、または同バスファナック経由平野行きで20分、大橋バス停下車、徒歩5分



旧古河庭園

東京都北区西ヶ原に在る旧古河庭園です。ここはバラで有名ですが、今の時期、そろそろ見頃を過ぎつつある感じです。庭園全体は武蔵野台地の南斜面を活かし、北側の小高い丘に洋館を建て、斜面は明るい洋風庭園で、低地には池を中心にした和風庭園を配した、変化に富んだ庭園です。西洋式庭園から、日本庭園への変化は、階段と鬱蒼とした木々で、極端に変わり面白いです。
この庭園は、明治の元勲陸奥宗光の邸宅で、宗光の次男が古川財閥の養子になったときに邸宅も古河家の所有となりました。戦後、国へ所有権が移り、地元の要望などにより東京都が国から無償で借り受け、昭和31年(1956)4月30日から有料で一般公開しています。
総面積3,078,086平方メートル、シンボルの洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士で、日本庭園は、京都の庭師、小川治兵衛作です。 数少ない大正初期の庭園の原型をとどめる貴重な存在で、1982年8月4日に東京都文化財に指定されました。

 旧古河庭園
 所在地/北区西ヶ原1−27−39
 交通/地下鉄南北線「西ヶ原」駅下車徒歩7分
    JR京浜東北線「上中里」駅下車徒歩7分
    JR山手線「駒込」駅下車徒歩13分
 料金/旧古河庭園入園料150円、旧古河邸入館料515円(要予約)
 休園日 年末年始



清澄庭園

映画「ソルジャードッグス」や「ひばりのすべて」「土曜ワイド劇場」などを撮ったカメラマンのNさんに薦められて、初めて清澄庭園に行ってきました
。東京のガイドブックには必ず載っている場所ですが、これほど赴きがある庭園だとは思いませんでした。都会の真ん中にあっても、とても静かで、広大な敷地を鯉や花々、珍しい石、水鳥や野鳥を眺めながら、のんびり歩きました。このときはスケッチブックを持ってこなかったのを悔やみました。もともと、この庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡で、享保年間(1716〜1736)は下総関宿藩久世家の下屋敷だったものを、三菱創業者・岩崎弥太郎が買い取って整備したものです。庭園内には大正天皇の葬儀に用いられた葬儀殿(復元)や、日本各地の名石、芭蕉の有名な俳句「古池や かはづ飛び込む 水の音」碑(一番下の写真)、山全体がツツジで覆われた富士山、などがあります。回遊式林泉庭園の中心にある数奇屋造りの「涼亭」は日本情緒を強く感じさせてくれました。

 清澄庭園 (都指定名勝)
 涼亭 東京都選定歴史的建造物
 東京都江東区清澄3−3−9   
 半蔵門線・大江戸線「清澄白河」駅徒歩3分
 清澄サービスセンター 
 電話03−3641−5892
 開園時間 午前9時〜午後5時
  (入園は午後4時30分まで)
 休園日 年末年始(12月29日〜1月1日)
 料金 一般150円  65歳以上70円  小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料



檜町公園

この場所は、江戸時代は長州藩・松平大膳大夫の中屋敷で、庭園は「清水園」と呼ばれていました。
周りに檜の木が多かったため「檜屋敷」とも呼ばれ、「檜町」という地名の由来になりました。
元治元年の長州征伐の際に幕府に没収され、明治7年歩兵第一聯隊駐屯地となりました。戦後は米軍に接収され、防衛庁へ移行し 昭和38年都立公園として開園しています。スポーツが出来そうな広々とした芝生や、起伏のある日本庭園が東京の中心に居るのを忘れさせてくれました。東京ミッドタウン側の小高い坂の上には、長州藩邸当時の名残を残す小さな滝があります。日本趣味の休憩所や、沢山の花々、さまざまな景観が楽しめました。

 檜町公園
 港区赤坂9-7







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