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唐津城は、慶長13年(1608年)寺沢広高によって築かれた連郭式の平山城です。別名・舞鶴城と呼ばれる天守閣は、小ぶりながら、均整がとれていて、多少、天地を引き伸ばしたようなスラっとした姿が、一段と気品を感じさせてくれます。
明治維新後に廃城となり、舞鶴海浜公園として整備され、今では城址広場へ公園散策用エレベーター(有料)も着けられています。
復興天守閣は昭和41年鉄筋コンクリートで造られ、唐津藩資料や唐津焼などが展示されています。
5階の展望所からは玄界灘や虹の松原(国の特別名勝)、松浦川添いの唐津市内などを眺められ、一見の価値が有ります。
一階のショプには「ひこにゃん」に似たゆるキャラ「唐ワンくん」なるもののグッズが多数並べられていました。同じ九州の「くまもん」が大スターとなったこともあり、各地に様々なキャラが登場しているもようです。
この姿を見てから天守閣を観覧するのは、安全が確保されているとはいえ、多少勇気が必要でした。(笑)
(平成28年度工事完成予定)
唐津城
住所/唐津市東城内8-1 TEL/0955-72-5697
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原城跡です。歴史的な意義と巨城跡を感じたいと思い、以前より訪れてみたかった城跡です。この城は1496年(明応5年)有馬貴純によって築かれ、日野江城の支城でした。
1616年(元和2年)松倉重政が日野江城に封入しますが、山間の日野江城を放棄し新たに島原城を築城します。一国一城令のために日野江城、原城を廃城とし、石垣や構築物も島原城に使われました。
本来なら、原城はそのまま歴史上から姿を消す予定でしたが、島原藩主松倉重政・勝家父子が島原城築城の為に過酷な徴収や、キリシタン弾圧を行った為、農民一揆を引き起こしました。世に言う「島原の乱」です。そして廃城となっていた原城には婦女子を含む一揆軍3万7千人が籠城し、幕府側12万人と3ヶ月強の戦闘が繰り広げられました。兵糧、武器の尽きた一揆軍に対し幕府軍は内通者の1人を残し、老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しています。
現在の原城は乱後に、幕府が徹底的に破壊したため、以前の姿を想像するしかありませんが、発掘された石垣、空堀から、往時の巨城ぶりがうかがわれます。
一揆の原因となった島原藩主・松倉勝家は幕府により罪人として斬首させられています。大名が切腹さえも許されないのは異例なことで、幕府にとって「島原の乱」の衝撃はとてつもなく大きなものと思われます。福島原発事故の東電の「想定外」よりも大きな想定外だったに違いありません。
1938年(昭和13年)国指定史跡
発掘調査にて、鉛の弾丸、クルス、瓦、土器や万人坑が出土しており、原城文化センターにて一部を見ることができます。 |
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神奈川県小田原市にある石垣山一夜城跡です。豊臣秀吉による小田原征伐の為に作られました。
一夜城といってもその規模の大きさや、今も残る石垣の数々を見ても、とても一夜で出来上がるものではありません。
一説によれば、豊臣秀吉は山頂付近を密かに築城してから、それが一夜のうちに出来上がった様に見せる為、周りの山林を伐採して小田原城に籠もる北条方を驚かせた為に一夜城と呼ばれているようです。
実際には、のべ約4万人が動員され、約80日間が費やされた築城だそうですから、北条方にしてみれば、ある程度の城を想像できたものと思います。
石垣山一夜城歴史公園
小田原市早川1383-12
問い合わせ先
小田原市役所 〒250-8555 神奈川県小田原市荻窪300番地
建設部 みどり公園課
0465-33-1583 |
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野田城は、愛知県新城市にある連鎖式の山城です。
1505年に菅沼氏が築城した城で、現在も二の丸と本丸の間の空堀と土橋がしっかり残っていています。 戦国時代、上洛を目指した武田信玄が最後に落とした城として有名で、武田軍は、この城を1ヶ月間包囲して水を断って落城させましたが、信玄の病状が思わしくなく落城させながら甲州に引き返しています。
一説にはこの城攻めのおりに、毎夜、城から聞こえる笛の音に聞きほれた信玄が城の近くに寄って、城内からの鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの説もありますが、真実としては持病の悪化が有力なようです。
野田城跡
JR飯田線野田城駅下車徒歩15分 |
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室町時代に太田道灌により築かれたお城とされてきましたが、近年発見された史料に、1478年(文明10年)に成田自耕斎正等が築城したと書かれたものが発見されています。
戦国期に河越夜戦で大勝利して、武蔵に勢力を伸ばした北条氏側の城となりますが、豊臣秀吉の小田原征伐で浅野長政らに攻められ落城。北条氏滅亡後は高力清長が2万石で岩槻城に入り、それ以後、大岡氏まで徳川譜代大名の居城となりました。
明治四年に壊されましたが、空堀と土塁の一部と、黒門と裏門が移築されて残っています。かつての城門・黒門(写真3、4枚目)は一時、埼玉県庁の門にも使われました。
岩槻城址公園として整備されていて、池にギザギザに付けられた朱塗りの「八ッ橋」と、見頃の蓮がとても印象的な場所でした。
県指定史跡
岩槻城跡
住所 さいたま市岩槻区太田3丁目4番 |
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康正2年(1456年)下総から追われた千葉自胤により築かれた城という説と、源頼朝の時代に造られていたという説のある城です。赤塚千葉氏は北条氏の家臣となりますが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏は滅亡し、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になりました。
規模の大きな平山城は、現在は文化ゾーンの公園として整備されている為、釣りを楽しむ区民の憩いの場でした。広々とした頂上部の石碑と、僅かな空壕、土塁の遺構が、かつてのお城である事を知らせていました。 |
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関東七名城の一つ「宇都宮城跡」です。城の歴史は古く平安時代に藤原宗円が屋敷を建てたのが始まりといわれています。改修により、徐々に規模を大きくした土塁造りの平城です。
戦国時代には北条氏により占拠されたこともありましたが、代々、藤原氏から名前を改めた宇都宮氏の本城でした。
慶長3年(1598年)以降、蒲生氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、松平氏などが城主になりました。
宇都宮城というと、やはり「吊り天井」です。
元和5年(1619年)、本多正純が15万5千石で宇都宮城に入り、城を改修し、城下を整備して、城内には日光東照宮参拝の際に徳川将軍宿泊所となる本丸御殿を建設しました。
この宿泊所がからくり仕掛けの吊り天井で、本多正純が将軍暗殺を企てたという話ですが、真実は不明です。ただ、元和8年、家康七回忌のおり2代将軍・秀忠の日光詣でに決まっていた宿泊場所・宇都宮城が急遽取りやめになり、本多氏は改易され、正純は秋田・佐竹氏のお預けの身になりました。(宇都宮城釣天井事件)
幕末・明治の戊辰戦争で、宇都宮城は官軍に付きますが、江戸から退いてきた土方歳三ら旧幕府軍に攻められ陥落して城の大部分と町が焼失しております。城の僅かな遺構も都市開発でほとんど残っていませんでしたが、近年、本丸の土塁、堀、清明台櫓、富士見櫓などが復元されました。
この城の独特な復元は、清明台櫓や富士見櫓と土塀が木造本瓦葺きの白漆喰総塗籠で忠実に復元されているのに、土塁の構造体は鉄筋コンクリート造りで、エレベータや資料館、実際には無かった大きな通用口、近代的な灌水設備が配置され、アンバランスな感じでした。今後のお城の復元は、維持管理の為に、この様な復元となって行くのでしょうか?
本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する為の募金活動も盛んでした。そちらも復元されたら、また訪れたいと思います。
宇都宮城址公園
宇都宮市本丸町、旭1丁目地内
電話番号:028-632-2786 |
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1619年(元和5年)、徳川家康の曾孫・小笠原忠真によって造られました。各地の一国一城令で廃城になった材料を利用して造られた為、老朽化が激しく、2代藩主の時には早くも大改修が行われたそうです。城主も目まぐるしく入れ替わり、明治維新後、1874年廃城となりました。
1995年(平成7年) 阪神・淡路大震災により大きな被害を受け、修復と同時に、巽櫓と坤櫓(天守閣のない明石城で最大の櫓)を繋ぐ塀が復元されました。公園内には「武蔵の庭園」と呼ばれる庭があります。剣豪・宮本武蔵が城内樹木屋敷の設営にかかわった経緯があり、少ない資料から再現されたものだそうです。
一番残念だったのは、お堀にたくさんの噴水を設置してあり、お城の雰囲気を壊していたことです。出来ればお城の堀はそのままにして、別な所に噴水を設けて欲しかったです。
明石城
住所 兵庫県明石市明石公園1-27
交通 JR神戸線・山陽電鉄「明石駅」徒歩5分 |
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伊勢音頭に「尾張名古屋は城で持つ」と歌われる名古屋城です。
日本三名城の一つで、さすがに規模が大きく、威厳があって美しいお城でした。(日本三名城の残り2つは大坂城と熊本城です)
那古野城跡地にあり、廃城後、慶長14年(1609年)に、徳川家康が西国諸大名に命じて築城を開始し、慶長17年に大天守が完成しました。
徳川御三家の筆頭格だけに規模も大きなものとなっています。明治維新後は、各地のお城が取り壊される中、天守や本丸御殿などが保存されていましたが、太平洋戦争の空襲により、本丸御殿、大天守、小天守と共に国宝の障壁画も焼失してしまい残念に思います。
現在の名城公園には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が現存し、当時のままの姿を見せてくれています。平成22年には本丸御殿の一部が復元されるそうで、今から楽しみです。
名古屋城
住所 愛知県名古屋市中区本丸1-1
交通 地下鉄名城線「市役所駅」徒歩5分 |
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永正年間(1504〜21)に田峯城の支城として造られました。元亀2年(1571)武田軍の三河侵攻で武田側になります。天正3年(1575)5月の設楽ヶ原の合戦で敗北した武田勝頼が甲斐に帰還するさい、田峯城では入城を拒まれますが、この城には入れて、一息いれて甲州に戻ったそうです。
わずか数百の手勢になっていた勝頼を田峯城や、この武節城の城兵が攻撃していたら、武田家の滅亡は7年早まっていたかも知れません。この城は、後に酒井忠次に攻略され、徳川方の城となります。天正18年、徳川家康の関東移封と共に廃城となりました。
武節城
愛知県豊田市武節町武節 |
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永正5年(1508年)に菅沼元成が築城しました。豊川と宇連川が合流する断崖絶壁の地点に本丸を置き、その隣に二の丸、三の丸、弾正曲輪、服部曲輪、野牛曲輪が築かれていました。
戦国時代は徳川軍、武田軍の攻防の舞台となり、天正3年(1575年)5月、武田勝頼が1万5千の兵で、長篠城を囲み、長篠の戦いが始まります。長篠城攻防戦で城が損壊した為、合戦後、奥平信昌は新城城を築城して、長篠城は廃城となりました。
現在も川側の断崖絶壁は迫力があります。本丸付近には大規模な空堀と土塁が残っていて見応えはありますが、JR東海の飯田線が旧長篠城内を走っているため遺構が破壊、寸断されているのが残念です。
長篠城
愛知県南設楽郡鳳来町長篠市場
JR東海飯田線長篠城駅から西へ徒歩7分 |
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この城は日本三大山城の一つで、標高も日本一高い所(721m)にある城です。これだけ高いと政治的には何かと不便だったと思います。城主が女性だったこともあり、岩村は女城址の里とも呼ばれていました。
日本三大山城と言われるだけに、山の構造を生かした広範囲にわたる壮大な石垣が見事で、圧倒的に攻める側の不利さを感じました。
文治元年(1185)に加藤景簾が築城したもので、戦国時代には武田信玄と織田信長が岩村城を奪い合いました。天正3年(1575)長篠の合戦で織田信長が武田軍に勝利し、織田方の城となります。
その後、森氏、松平氏、丹羽氏と変わり、松平氏7代3万石の居城として明治維新を迎えました。
たくさん有る井戸のうち、霧ヶ井というのがあり、日照が続いても枯れない井戸で、蛇骨を投げ込むと霧が発生し、霧がお城を守るという伝説があったそうです。
菱櫓の石垣は日本のお城では珍しく菱形で、櫓も菱形だったそうですから、その櫓も見てみたいものだと思いました。募金活動も山麓でしていましたから、将来、お城が復元されるのを待ちたいと思います。(自分が生きていれば)
本丸跡には、信長が本能寺の変で亡くなる八十日前に泊まっていたそうで、その場所には看板が出ていました。
ちなみに日本三大山城はこの岩村城と大和高取城、備中松山城です。
岩村城
岐阜県恵那市岩村町 |
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飯田市街地を見下ろす小高い山の上に築かれた飯田城跡です。この城は室町時代の坂西長由が築いたのが始まりで、戦国時代に武田家臣・秋山信友が本格的な築城をしました。
関が原の合戦後、小笠原氏、脇坂氏と入封して、寛文十二年(1672)以降は、堀氏の居城となり明治を迎えました。本丸跡と二の丸跡の間には現在も深い空堀切が残っており、かつての面影を忍ばせます。
飯田市美術博物館建設の折に発掘調査されて現在、二の丸水路、二の丸大通り、井戸、石組堅穴などが復元整備されています。
現在、本丸跡に長姫神社、日夏耿之介記念館、柳田國男館が在ります。
飯田城跡
飯田市飯田追手町 |
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現在の江戸城跡はかなり、埋め立てられ規模が縮小しているとはいえ、さすがに大きな城跡でした。
かつて存在した天守閣は5層、44・8メートルで、3代将軍・家光の頃には焼けてしまい、以後存在していません。
内堀、外堀の大きさを考えたら、明治維新の時に最後の将軍・徳川慶喜が篭城戦を覚悟した場合、官軍も手こずったに違いありません。出来る事なら、現在公園化している巨大な敷地を生かして、日本のシンボルとして、江戸城天守閣、本丸御殿、西の丸御殿を本格木造で復元してもらいたいものです。(とてつもない経費が掛かるので、すぐには無理でしょうが、将来、日本を代表する歴史建造物になって欲しいと思います。)
江戸城・松の廊下跡
ご存知、"殿中でござる"の松の廊下跡です。浅野内匠頭に切りつけられた吉良上野介は額と背中に傷を負い、ひどい出血だったそうですが、2週間程度で良くなり、その後は、世間の同情を買う為、しばらく重症のように見せかけていたそうです。
江戸城・平川門
江戸城の平川門・平川橋は、とても美しい門と橋です。平川橋は江戸時代の大橋に最も近いイメージの橋です。平川門は、かつては御三卿の登竜門で、大奥に最も近く、奥女中の通用門でもあったので、「御局御門」とも言われました。江戸城の勝手口で、春日局が門限に遅れて締め出された門です。また、この門は城内の死者や罪人を出す不浄門で、大奥女中・絵島や「忠臣蔵」のきっかけとなった刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭が鍵の架けられた籠に乗せられて出ました。
宮内庁・皇居東御苑管理事務
東京都千代田1−1
電話03−3213−1111 土曜、日曜の連絡先03−3213−2050
入場無料
公開時間
3月1日〜4月14日 午前9時から午後4時30分
4月15日〜8月末日 午前9時から午後5時00分
9月1日〜10月末日 午前9時から午後4時30分
11月1日〜2月末日 午前9時から午後4時00分
(いずれも入園は閉園の30分前まで)
休園日 月曜日及び金曜日(天皇誕生日以外の国民の祝日等の休日)月曜日が休日の場合は火曜日が休園 |
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静岡県の浜名湖西岸、湖西市にある城跡です。現在、城跡は一部、正太寺の墓地となっていて、案内板と土塁が僅かに残るのみとなっています。山頂部からの館山寺温泉方面の浜名湖が一望できます。
冬には富士山も眺められます。
この城は、大永4年(1524)、今川氏親が築きました。享禄年間(1530前後)には今川譜代の朝比奈氏が城主をしていました。
永禄3年(1560)に当主の今川義元が桶狭間合戦で討たれ、徳川家康が三河に戻り勢力を伸ばしてくると、朝比奈真次は今川を見限りますが、今川軍の小原鎮実に攻められて真次一族は討たれました。
永禄11年12月15日、徳川軍の酒井忠次に攻められ落城しました。その後は徳川方の城となりましたが、領土を伸ばしてからは重要性がなくなり廃城となりました。
宇津山城
静岡県湖西市入出字正太寺鼻 |
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多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国の国府が置かれ軍事拠点になった場所です。9世紀には碁盤の目に道路網が整備され、大きな町並みとなりました。
現在は、政庁跡や、復元された塀などが残されているのみで、かつての大都市・城郭のイメージはなく、旅人・山本が訪れたのが桜の季節だった為、家族ずれがのんびりくつろぐ広々とした公園になっていました。
多賀城南門付近にある「壷碑」には、多賀城の位置、神亀元年(724)に多賀城が大野東人によって創建されたことなど経緯が示された石碑が残っています。
国指定特別史跡指定 |
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仙台城は、仙台市の青葉山にある平山城です。以前訪れた時は工事中だった石垣や、隅櫓も復興して、62万5千石の風格を感じられる様になりました。(大手門の再現案も出ていますが、こちらはどうなりますか。)
仙台城というよりも、「青葉城」の方が雰囲気を感じて、良い名前に思うのは自分だけでしょうか?仙台藩の藩祖・伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年、伊達氏の居城でした。
何度か地震による被害を受けながら、修復され、戊辰戦争の時には、奥羽越列藩同盟盟に加わりましたが、城として機能せず、明治をむかえ大半が失われました。大手門、隅櫓、巽門など残っていた遺構も太平洋戦争の空襲により焼失しまた。
伊達正宗像近くにはガイダンス施設「仙台城見聞館」が開館していました。この施設横には、仙台城の初期の石垣と、その後の石垣の構造を再現したスペースが有り、とても参考になりました。国指定史跡。
仙台城見聞館
開館時間 午前9時〜午後5時(年中無休)
入場料 無料
場所 仙台城本丸跡・伊達政宗騎馬像西側 |
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山形城は山形市霞城町にある平城で、別名「霞城」と呼ばれています。
1357年(延文2年)に斯波兼頼が築城し、後に戦国大名・最上義光の本拠地となり、城と城下町を整備しました。
最上義光は伊達政宗の伯父にあたり、出羽山形藩初代藩主になりました。関ヶ原の戦いの功で、最上氏が出羽57万石に転封されると、鳥居忠政が入ります。この城も徳川幕府に遠慮してか、本丸御殿のみで天守は作られませんでした。
明治維新で城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍歩兵三十二連隊の兵営敷地となりました。現在、そのほとんどが失われ、わずかに二の丸城址が霞城公園として残されています。
昭和61年に東追手門や本丸の石垣が復元され、平成3年に二の丸東大手門、平成18年に大手橋が復元されていて、その門の規模が、かつての山形城の大きさと、防御の強さを感じさせてくれました。
国指定史跡
山形城
住所 山形県山形市霞城町
交通 山形駅より徒歩 約10分
写真1枚目 二の丸東大手門
写真2枚目 二の丸東大手門説明版
写真3枚目 最上義光銅像
写真4枚目 山形城櫓門
写真5枚目 山形城本丸石垣
写真6枚目 霞城公園案内図
写真7枚目 南追手門付近 |
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新発田城は、新潟県新発田市にあるお城で、別名、菖蒲城とも呼ばれています。
旅人・山本が訪れた日には「桜祭り」が開かれていて、大勢の花見客でごった返していました。
鎌倉時代に新発田氏により築城され、天正15年に、新発田重家が上杉景勝に敗れて新発田氏は滅亡しました。その後、上杉氏、溝口氏が入城し、明治維新後、廃城令により、表門・二の丸隅櫓と石垣を残し、破却されました。2004年に三階櫓と辰巳櫓が復元され、辰巳櫓のみ、一般公開されています。天守閣のない新発田城にとっては、三階櫓は実質的な天守で、さらに、屋根の棟が丁字型になっていて、三匹の鯱が載っている珍しい三階櫓です。
残念ながら、陸上自衛隊の敷地内に在る為、この珍しい三階櫓に入る事が出来ません。(新潟県内では江戸時代の城郭が残る唯一のお城だけに残念な気持ちです。)
現在、新発田城本丸を再建しようとする動きが有りますので、将来、自衛隊移転、城再興も有るかもしれません。表門前には初代藩主・溝口秀勝の曾孫にあたる堀部安兵衛の銅像が建っています。
表門と二の丸隅櫓は国の重要文化財に指定されています。
新発田城
住所 新潟県新発田市大手町6-4
交通 JR羽越本線「新発田駅」から徒歩25分
写真1枚目 復元された三階櫓
写真2枚目 二の丸隅櫓
写真3枚目 表門
写真4枚目 復元された辰巳櫓
写真5枚目 二の丸隅櫓
写真6枚目 表門前の堀部安兵衛銅像 |
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高天神城を落す為に天正6年(1578)徳川家康が家臣の大須賀康高に命じて築かせました。
戦国時代末期、西の徳川と東の武田との境界となり、激しい攻防戦が続きました。
天正9年(1581)高天神城は落城し、廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点となりました。
横須賀城には普通1つしかない大手門が、東西にあり「両頭の城」といわれたそうです。「玉石積み」とよばれる丸い河原石を用いた石垣も独特でした。明治2年8月に廃城。明治6年には民間に払い下げられました。昭和56年5月8日国史跡に指定。
住所 静岡県掛川市横須賀
交通 車 東名高速〜掛川ICより約15km
駐車場 横須賀城の無料駐車場を利用
写真1枚目 本丸南下門跡推定地の遺構
写真2枚目 天守台跡
写真3枚目 横須賀城
写真4枚目 横須賀城復元模型
写真5枚目 横須賀城跡碑
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歴史好きの方には、この城の名前はよく聞く名前なので馴染みがあると思います。
戦国時代は「高天神を制する者、遠州を制す」といわれたそうです。現在は、東海道線、新幹線、東名高速からも外れ、不便な場所に感じますが、当時は幹線沿いで、遠州灘にも近く重要な拠点だったものと思われます。
高天神城は、戦国末期武田・徳川の境界線で、攻防が繰り返されました。
城は応永23年(1416)今川貞世が築いたといわれていますが、特定されていません。今川義元が桶狭間で討ち死にすると、徳川家康の支配下の小笠原長忠が城主となります。
元亀2年(1571)3月、武田信玄が2万5千の大軍で包囲しますが、落すことは出来ず退却します。天正2年(1574)5月、今度は武田勝頼が2万の大軍で攻め、7月2日ついに落城。武田氏は整備・改修し、大規模な山城となりました。徳川家康が横須賀城を近くに築き、そこを拠点にして高天神城を落城させると、城は廃城となりました。
住所 静岡県掛川市下土方
交通 電車 JR東海道本線掛川駅〜静鉄バス大坂行で土方下車
車 東名高速掛川I.C〜県道掛川大東線
駐車場 高天神城の無料駐車場
写真1枚目 高天神城跡碑
写真2枚目 搦手より登る
写真3枚目 的場曲輪跡
写真4枚目 本丸跡
写真5枚目 元天神社
写真6枚目 土塁跡
写真7枚目 高天神城跡略図
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二俣城跡は浜松市二俣の北側、天竜川沿いの標高100mの丘に在る城です。駐車場から本丸に続く道は、センサーで自動的に説明テープが流れる仕組みになっていました。現在は、天守台・土塁・石垣・二の丸・堀切が残っています。
二俣城は文亀年間に今川氏親の家臣、二俣近江守昌長が築いた城です。桶狭間の合戦で、当時城主の松井宗信が討死し、勢力を伸ばした徳川家康の支配下になると鵜殿氏が城主になります。
元亀三年(1572)、遠江に侵攻してきた武田軍の大将・勝頼により水の手を断たれ落城し、以後、武田方の武将、依田氏が治めた。信玄死後の長篠の合戦で武田軍が大敗すると、再び徳川氏の大久保忠世が城主になり、城の整備・拡張を図リますが、家康の関東移封により二俣城は廃城となりました。
二俣城といえば、家康が嫡男・信康を自害させた場所でもあります。信康が武田氏に通じているという疑惑を織田信長に持たれ、二俣城に幽閉の後、自害させました。一説によると、信長の嫡男よりも信康の方が優秀な人物だった為に、後々を危ぶんで家康に排除させたとも言われています。家康は信康を何度か別な場所に移動させているので、あるいは、移動中に脱走して欲しかったのかも知れません。自害後、信康の菩提を弔うため、清瀧寺を建立しました。
本丸跡に残る天守台跡は静岡県最初の天主台です。
住所 静岡県浜松市天竜区二俣町
交通 天竜浜名湖鉄道二俣本町駅より徒歩15分 |
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都留市川棚の城山(標高571メートル)にあるお城です。桂川を挟んで対岸に谷村城があり、互いの城は内橋で繋がっていた為、連動できたものと思われます。桂川が天然の堀になり、切り立った城山に攻め入るのは困難で、反対側の内堀から攻める事になると思われます。
勝山城は小山田氏の居城谷村城の詰城として造られ、小山田氏が天正十年(1582)、織田信長に滅ぼされると、北条氏、徳川氏の支配化に置かれ、文禄三年(1593)、浅野左衛門左氏重が本格的城郭とします。以降、本堂氏・秋元氏らが治めましたが、江戸中期に秋元喬知が川越移封となると、宝永元年(1704)に廃城となりました。現在、本丸跡の東照宮が在り、二の丸跡・三の丸跡・川棚見張台跡・焔硝蔵跡・帯郭跡・土塁・空堀等が見られます。
勝山城跡
富士急行「谷村駅」下車徒歩20分
都留市川棚字城山
写真1枚目 勝山城遠望
写真2枚目 内堀
写真3枚目 川棚見張台からの展望
写真4枚目 本丸方面(山頂)
写真5枚目 本丸跡
写真6枚目 二の丸発掘中 |
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渋谷城は、東京の山手線渋谷駅から10分程度歩いた金王八幡神社の境内一帯に築かれていました。現在では都心の一等地ですが、当時としては交通の要衝に加え、谷(駅)の東側の台地に築いた守りやすい城で、渋谷川が天然の堀になっていました。
渋谷城は、源義家からこの地を与えられた渋谷氏によって築城され、戦国時代・大永4年に小田原の北条氏に攻められ、廃城となりました。
境内には、城に使われたといわれる石や金王丸産湯井戸があり、渋谷城の説明板がありますが、他に遺構らしき物は在りません。(写真は金王八幡神社の例大祭の時に撮りました)
渋谷城
交通 JR山手線渋谷駅徒歩約10分 |
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諏訪原城は、牧ノ原台地の北東、標高200mに位置する山城です。1569年(永禄12)に武田信玄が構えた城の一つで、馬場信春が築城しました。
天正3年、長篠の合戦で、武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗すると、同年、諏訪原城は徳川家康に攻められ、2ケ月の攻防の末、落城し、その後、廃城となりました。 現在の城跡は雑木林と茶畑となっていて、井戸や曲輪跡、大小の堀が良く残っています。現在、天主台地で発掘作業が行われています。 諏訪原城の城名の由来は、武田氏の守護神である諏訪大明神を城内に祭ったことからつきました。
諏訪原城
静岡県榛原郡金谷町菊川字城山
写真1枚目 諏訪原城説明板
写真2枚目 諏訪神社
写真3枚目 四号堀
写真4枚目 本丸馬出口
写真5枚目 天主台跡
写真6枚目 諏訪原城説明板
写真7枚目 発掘中
写真8枚目 諏訪原城からの金谷駅方面
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岡崎城の起源は15世紀前半に西郷頼嗣により築城されたのが始まりで、享禄3年(1530)に松平清康が現在の位置に移し、天文11年(1542)12月26日に徳川家康が城内で誕生しました。
永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が討ちとられると、今川家の人質で、尾張の戦地にいた家康は岡崎城に篭り自立し、地元・三河の地を固めました。元亀元年(1570)に、家康は本拠を浜松城に移し、嫡男・信康が岡崎城主となります。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として、本多氏、水野氏、松平氏、本多氏と、家格の高い譜代大名が城主となりました。
明治6年〜7年にかけて城は取り壊されましたが、昭和34年(1959)に、コンクリートによる天守閣が復元されました。堀の深さ、石垣の高さは5万石とはいえ、さすがに"家康生誕の城"でした。
住所 〒444−0052 愛知県岡崎市康生町561番地 岡崎公園内
連絡先 TEL 0564―22−2122
開館時間 9:00−17:00 (入館は16:30まで)
休館日 年末年始(12月29日〜1月1日)
*現在天守閣には入場出来ません。
写真1枚目 乙川と岡崎城
写真2枚目 岡崎城の紅葉
写真3枚目 岡崎公園散策マップ
写真4枚目 風呂谷門址
写真5枚目 岡崎城天守閣
写真6枚目 お堀
写真7枚目 大手門 |
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天正11年、家康が甲斐支配のため、重臣平岩親吉に命じて築きました。徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を持ち、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、柳沢吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。「舞鶴公園」として内城の部分が開放されてきましたが、最近では、舞鶴城公園整備事業により、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました。
山梨県甲府市丸の内1丁目
JR中央本線甲府駅〜徒歩5分
稲荷櫓
開館時間 午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日 月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始(12月29日〜1月3日)
入館料 無料 |
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掛川城は、室町時代中期に今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に築城させたものです。徳川家康領となってからは重臣・石川家成・康通親子が入りました。天正18年(1590年)に家康が東海から関東に移封されると、豊臣方の山内一豊が5万1千石で入ります。「功名が辻」山内一豊は掛川城を現在残る城郭に拡張しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康に城と兵糧を提供した一豊は土佐一国を与えられて高知城に封入しました。その後、掛川城には多くの譜代大名が入りましたが、最終的には太田氏が入りました。
幕末の嘉永7年(1854年)末に、嘉永東海地震により、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊しました。地震後、文久元年(1861年)までに二ノ丸御殿が再建されましたが、天守は再建されることはありませんでした。1994年(平成6年)日本初の本格木造天守が再建されました。
霧吹井戸
掛川城の天守閣脇に現存する井戸です。戦国時代、今川義元が桶狭間にて、織田信長の奇襲により討たれ、急速に今川家の求心力が衰えると、駿河は隣国の武田信玄と徳川家康に東西から攻め込まれました。当主の今川氏真は、重臣・朝比奈泰朝の守る掛川城へ逃れます。この城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際に、井戸から霧が立ちこめ、城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍が攻撃できなくなったという伝説があります。それ以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになりました。
掛川城二の丸御殿は国の重要文化財に指定されています。
住所 静岡県掛川市掛川
交通 東海道新幹線「掛川駅」北口から徒歩10分
写真1枚目 掛川城
写真2枚目 三日月堀
写真3枚目 太鼓櫓
写真4枚目 掛川城天守閣
写真5枚目 掛川城天守閣
写真6枚目 二の丸美術館
写真7枚目 二の丸御殿内部
写真8枚目 霧吹井戸 |
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1583年に武田信玄家臣・真田幸昌幸が上田城を築城しました。関ヶ原合戦のおり、豊臣方についた昌幸、幸村は紀伊国九度山に配流され、徳川方についた信之(昌幸の長男)が1622年まで上田城城主となります。親子で敵、味方に別れ、どちらが勝っても真田氏が生き残れると考えたと言われていますが、昌幸、幸村の様な己の力を信じる人には、「長い物(家康)には巻かれろ」といった考え方は最初から無縁だったと思います。真田信之の正室が、徳川家康の養女「小松姫」であったために長男のみ家康に付いたと思われます。
上田城は上田盆地北部の尼ヶ淵に位置し、天守閣は造られませんでした。千曲川が南櫓のすぐ下を流れ、南方からの敵の攻めに対し、自然の防衛となり、北方は、太郎山が防衛となります。東方は、防衛がなく、敵軍は東方から来る事になります。
関ヶ原の合戦おり、徳川二代将軍秀忠は上田城を大群で囲みながら、戦上手の真田氏の策略にはまり、落城させる事が出来ず、関ヶ原の合戦に、間に合わせなくなり、家康に大目玉をくらいました。
その後は仙石氏、松平氏が統治し、明治維新を迎えました。
本丸に3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)が現存し、県指定文化財に指定されています。1994年に、南櫓と北櫓の間を結ぶ東虎口櫓門と袖塀が古写真を元に復元されました。
上田城跡公園には、市営球場、市民会館、市立博物館などがあります。
住所 長野県上田市二の丸
交通 長野新幹線「上田駅」から徒歩10分
写真1枚目 南櫓
写真2枚目 南櫓
写真4枚目 上田城からの市内
写真5枚目 南櫓と東虎口櫓門、北櫓
写真6枚目 真田幸村の人形 |
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日本のお城で、国宝に指定されているのは4城(松本城、犬山城、彦根城、姫路城)ですが、その中で唯一、平城の「松本城」です。別名・烏城とも呼ばれています。
昔は、深志城と呼ばれていました。典型的な平城で、5重6階の天守を中心に、乾小天守を連結し、辰巳附櫓、月見櫓を持つ現存天守です。階段が急で、非常に危険です。防御を考えての事でしょうが、居住性は犠牲になっています。松本城は、戦国時代、甲斐源氏の名門、小笠原氏が砦を築いたのが始まりです。後に、甲斐・武田氏の侵攻を受け武田氏の支配下となり、武田氏が滅んでからは徳川家康の支配下となり、家康が関東に移ってからは、石川数正が配置され、その子康長が、天守を始め、城郭、城下町の整備しました。
明治に入り、天守が大きく傾き、ロープで柱をしばり傾きを防いだ事もあるそうです。明治36年より大正2年まで大修理がおこなわれました。昭和5年(1930年)国の史跡に指定され、1952年(昭和27年)3月29日に天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝に指定されました。
交通
松本駅前からタウンスニーカー北コース(料金 100円)「松本城黒門」下車または、松本駅徒歩20分
休城日
12月29日から1月3日
時間
午前8時30分から午後5時まで
ただし、入場できるのは午後4時30分まで
料金
大 人 600円
小中学生 300円
アルプスと国宝松本城のライブカメラは下記です。
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/live/livecamera.html
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コヒガンザクラで有名な高遠城です。4月中旬には40万人以上の観光客が押し寄せるそうです。桜の時期を外せば、静かな高遠城が見られるとの事で、訪れてみましたが、本当に他には人が居ませんでした。高遠城は、名族・諏訪氏の一族である高遠氏の居城でしたが、天文14年(1545)4月、武田信玄に包囲され、高遠頼継は自ら城を開いて降伏しまた。
武田信玄は山本勘助、秋山信友に命じてこの城を改築し、今も勘助郭という名前が残っています。
天正10年(1582)年2月、織田信長軍5万で高遠城に進攻し、城兵3千で籠城しますが、仁科盛信(武田勝頼の弟)をはじめ奮戦、しますが玉砕して落城しました。この合戦の9日後には武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅びます。この3ヵ月後には「本能寺の変」が起こり織田信長も亡くなります。
徳川の時代となると、京極氏・保科氏・鳥居氏・内藤氏と交代し、明治維新を迎えます。
高遠城址のコヒガンザクラは、これは明治8年、旧藩士たちが馬場の桜を城址に移植したのが始まりだそうです。 「天正10年(1582)の高遠城攻防戦で散った者たちの血を吸っているので、これほど綺麗な桜になった」と地元では語られています。高遠城は月誉山西麓を利用した丘陵上に築かれ、本丸を中心に各郭を配置し、要所は石塁で防備しています。丘陵上に在る為、中央アルプス、南アルプス連峰、高遠市内が眺められ、展望も楽しめました。
国の史跡に指定されています。
高遠城
所在地:長野県上伊那郡高遠町東高遠
写真1枚目 大手門跡
写真2枚目 進徳館
写真3枚目 高遠閣
写真4枚目 高遠城碑
写真5枚目 二の丸跡
写真6枚目 太鼓櫓
写真7枚目 本丸跡
写真8枚目 高遠の町並み
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慶長十五(1610)年、家康の落し胤とも言われる土井利勝が佐倉に入り、江戸の東方を守る拠点として築いた近世城郭です。
この城は、千葉氏が天文年間に築城を開始して、未完のままだった鹿島城を整備拡張したものです。城主は、徳川譜代の重臣、幕府老中クラスが任じられる、格式の高いお城でした。土井氏の後に石川氏、松平氏、堀田氏が入り、堀田氏六代ののちに明治維新で廃城となりました。戦前、第一軍管第二師営、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などが置かれ、空掘りを埋めるなど地形が変わりましたが、近年の復原作業で、一部戻されています。
この城は、石垣を一切用いていないので、人を威圧する厳しさをあまり感じさせませんが、規模の大きさ、堀の深さで、重要性を感じさせます。
椎木曲輪(三ノ丸の外郭に相当)跡には、『国立歴史民族博物館』通称「歴博」が建ち、訪問客も多いです。
佐倉城址公園
交通 JR総武本線佐倉駅下車、徒歩25分
京成成田線京成佐倉駅下車、徒歩15分
問合せ 佐倉市商工観光課 TEL:043−484−1111
国立歴史民族博物館 TEL:043−486−0123
写真1枚目 佐倉城址説明版
写真2枚目 馬出し空掘
写真3枚目 台所門跡
写真4枚目 本丸跡
写真5枚目 空掘 |
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福岡県にある大野城です。日本書紀に「天智四年(665)達率四比福夫を筑紫国に遣はして、大野及び椽の二城を築かしむ。」とあります。大野城をはじめとする山城は、大和朝廷が、朝鮮半島から上陸する敵に備え、玄海灘沿岸や有明海、瀬戸内海に築いたものです。唐・新羅軍を水城で防ぎきれなかった場合、大宰府から大野城に登って戦う為の城でした。実際には大野城で戦う事はありませんでした。
大野城は古代の朝鮮式山城で、百済人の技術により築かれた城です。四王寺山全体が城で、天守閣や櫓、本丸や二の丸・三の丸、濠などは無く、山の尾根に土塁を作り、谷間には石塁が作られています。特に百間石垣は大野城最大の石垣で、長さ約200メートル、高さ60メートルあります。大野城の建物は70棟余りが確認されているそうですが、平成15年7月19日の大雨によって大変なダメージを受けたそうです。
問い合わせ先
ふるさと文化財課文化財担当
電話 092−580−1916、092−580−1917
ファクス 092−501−2270
写真1枚目 説明版
写真2枚目 百間石垣
写真3枚目 百間石垣
写真4枚目 大野城跡
写真5枚目 大野城跡からの大宰府市内 |
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吉野ヶ里遺跡です。この遺跡は、弥生時代の中でも日本最大の遺跡で、当時の「クニ」の集落や、弥生時代 600 年間の移り変わりを知ることができる貴重なものです。
弥生時代前期初頭に小規模な集落が形成され、後期には大規模な環壕集落へと発展したそうです。吉野ヶ里歴史公園では「弥生時代後期後半」を復元整備対象時期として、大規模に復元されている為、見応えがありました。とくに後期の司祭者の居住・祭祀の場と考えられる祭殿には、当時の国力、規模、文化度の高さを感じました。南内郭は高階層の人々の居住区、大規模な高床倉庫、大型甕棺墓、集団墓地などもありました。
吉野ヶ里遺跡が発見された時には魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」説が浮上しましたが、確定するまでには至っておりません。
1986年から佐賀県教育委員会によって発掘調査が開始され、現在も調査が行われています。旅人・山本が訪れた日は、夏休み期間中ということもあって、多数のボランティアの方が、当時の服装で当時の技術で織物や整備をされていました。ドリンク、タオルの無料配布、編み笠の貸し出しもありました。
有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されています。
国の特別史跡にも指定されています。
財団法人公園緑地管理財団 吉野ヶ里公園管理センター
〒842-0035 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
TEL.0952-55-9333 FAX.0952-55-9330
吉野ヶ里遺跡発掘調査事務所 tel / fax : 0952-52-9735
吉野ヶ里遺跡展示室 tel / fax : 0952-52-4130
写真1枚目 入口
写真2枚目 入口にあるキャラクター
写真3枚目 柵と堀と逆茂木
写真4枚目 環濠集落ゾーン案内図
写真5枚目 物見櫓
写真6枚目 物見櫓
写真7枚目 主祭殿
写真8枚目 主祭殿内部
写真9枚目 主祭殿内部
写真10枚目 主祭殿
写真11枚目 出入り口 |
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少し前の報道で、ご存知の方も多いと思いますが、本丸御殿が"震度6強の地震で崩壊の恐れ"とのことで、春秋の「本丸御殿特別公開」は休止になっています。国宝・二の丸御殿は従来どおり公開しています。(現在は外堀面した塀も修復中でした) 旅人・山本にとっては、中学の修学旅行以来の二条城でした。当時は「鴬張り」の廊下を、古くなって軋んでいるだけだと思っていましたが、やっぱり、違いました。ウグイスでした(笑)
二条城は、慶長8年(1603年)、徳川家康が京都での宿泊の為に築いた城で、「大阪の陣」の時にもここから向かいました。東大手門から入城すると、たくさんの彫り物と極彩色で飾られた豪華な唐門があり、その先の国宝・二の丸御殿、特別名勝・二の丸庭園と共に、お城というよりも宮殿といった感じです。徳川家と運命を共にした城で、皮肉にも、ここで最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行いました。
伏見城天守を移築した五層の天守は雷火により焼失して在りませんが、現在も、本丸御殿、二の丸御殿をはじめ、東大手門・北大手門・西門・桃山門・鳴子門・南中仕切門・唐門・などの城門、東南隅櫓・西南隅櫓の2基の櫓、米倉が2棟残っています。
京都府京都市中央区二条堀川西入ル
地下鉄東西線二条城前駅すぐ
問合せ先
京都市文化市民局元離宮二条城事務所京都市中京区二条通堀川西入二条城町541番地TEL (075−841−0096)FAX (075−802−6181)
開城時間8:45〜16:00
休城日年末年始 12月26日〜1月4日
入城料600円
写真1枚目 東南隅櫓
写真2枚目 修復中
写真3枚目 東大手門
写真4枚目 唐門
写真5枚目 二の丸御殿
写真6枚目 二の丸庭園
写真7枚目 二条城案内図 |
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電車の車窓から、何度も眺めていたのに、行ったことの無かった大阪城に初めて行ってきました。
旅人・山本の大好きな太閤・秀吉ゆかりの城ですから、もう少し早く訪れたかったです。
戦国末期、石田三成、淀殿と家康の政治的攻防、後藤又兵衛、真田幸村の活躍の舞台に立てて感慨深いものがありました。自分の訪れた日には「城灯りの景」というライトアップイベントを開催中で、城内の美しい夜景も眺める事が出来ました。
大阪城は、上町台地の北端に在り、北の台地下には淀川が流れ、天然の要害でした。豊臣秀吉が築城した当初の城は「大阪の陣」で落城後、徳川幕府が変更して再建した為、現在見られる縄張は、徳川氏のものです。1931年に竣工した現在の天守閣は、徳川氏の天守石垣上に、初層から4層までは徳川時代、5層目は豊臣氏の黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描いています。折衷様式になっていて史実とも一致しません。出来れば、豊臣秀吉の築いた天守閣で再現された物を見たいですが、場所も石垣も違うのでは、やはり、徳川時代の天守閣をそのまま再現するしか方法がないのではないかと思いました。
鉄骨とコンクリートで建てられ、日本全国で建てられた一番最初の復興天守です。(天守閣内は大阪城天守閣という博物館になっています。)天守閣の位置は違いますが、堀、門の位置等は秀吉時代と基本的に大きな違いはないそうです。城内には、韓国の方が沢山いましたが、ツアーの場所に入っているのでしょうか?天守閣の館内に入った場所にある案内係りまで韓国の方だったのには、さすがにビックリしました!
大阪城
交通 大阪環状線 森ノ宮駅、大阪城公園駅 徒歩15分
開館時間 午前9時から午後5時まで(最終入館は午後4時30分まで)但し、例年 春の桜、ゴールデンウィーク、夏休み、秋の特別展中は開館時間を延長しています。
(最終入館時間は閉館の30分前です)
料金 大阪城天守閣 600円
お問い合わせ
東部方面公園事務所
TEL:06-6941-1144
大阪城天守閣
TEL:06-6941-3044
西の丸庭園、茶室(豊松庵)
TEL:06-6941-1717 |
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標高235.8メートルの金山山頂に建つ関東最大の山城です。石垣・石塁が多く、先日訪れたトルコのトロイの城塞を思い出しましました。洋の東西を問わず、守りを固めた構造にすると似てくるのでしょうか?金山城は急勾配の山頂部にある為、攻めるのが難しそうです。
城内には「日の池」「月の池」と呼ばれる石垣で整備された円形池が2つあり、緑色で神秘的でもありました。この池は用水以外にも祭祀的なものにも使われたと考えられています。
この城の歴史は、保元2年(1157)源義家の嫡孫・新田義重が詰の城として築きました。現在の金山城跡は、文明元年(1469)に岩松家純が、重臣・横瀬国繁に命じて金山城を再築したものが基礎となっています。上杉氏、武田氏、北条氏など戦国大名に取り囲まれながら、その都度撃退しましたが、天正12年(1584)北条氏に開城します。
関東七名城の一つです(唐沢山城 金山城 宇都宮城 忍城 厩橋城 川越城 太田城)
日本100名城の一つ
群馬県太田市金山町40−98ほか
連絡先 0276−20−7090(太田市教育委員会文化財課)
東武伊勢崎線「太田」駅から徒歩50分
(車の場合、写真1枚目の「金山城周辺の案内図」の在る駐車場まで入れます。)
写真1枚目 金山城跡案内図
写真2枚目 金山城跡碑
写真3枚目 馬場下通路
写真4枚目 大手虎口から見た金山城
写真5枚目 「日の池」
写真6枚目 「月の池」
写真7枚目 馬場下通路 |
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小田原城跡に行ってきました。現在、城域で残っている部分が少なくなっているとはいえ、さすがに関東一の名城は大きかったです。(小田原城は2度目の登城ですが、1回目の印象が薄くなっていました。)6月1日〜24日まで、東掘花菖蒲園で「花菖蒲まつり」が開催されていて、花菖蒲と、常盤木門斜面一面の紫陽花がとても綺麗で楽しめました。
小田原城は15世紀中頃に大森氏が築いた城が前身で、明応4年(1495年)伊豆を支配する北条早雲が奪い、以来北条5代の居城になりました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めで、3ヶ月の篭城戦の末、開城して北条氏が滅びました。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論し、一向に結論が出なかった"小田原評定"という言葉を後世に残しました。
徳川時代は大久保氏、阿部氏、稲葉氏、再び大久保氏が城主となります。元禄16年(1703)の大地震では、天守閣をはじめほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいますが、本丸御殿以外は再建され明治維新を迎えます。(この点は、大火事以降、天守閣だけは造らなかった江戸城とは逆で面白いです。)明治3年廃城。明治34年には御用邸が建てられましたが、昭和3年地元自治体に払い下げられ現在に至っています。
天守閣の前にある動物園と遊園地には相変わらず違和感を覚えます。一方で、城を昔ながらの姿に復原しようとしていて、平成9年に銅門を復原し、今は馬出門の復原工事をしています。この二極の政策は今後どうなって行くのでしょうか?
小田原城跡(国指定史跡)
開館時間:午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:12月29日から12月31日まで
入館料:一般 400円 小中学生 150円
(団体)<30人以上>一般 320円 小中学生 120円
住所: 神奈川県小田原市城内6-1
アクセス: 東海道新幹線「小田原駅」東口から徒歩10分
お問い合わせ
小 田 原 城 0465−23−1373
小田原市観光課 0465−33−1521
写真1枚目 小田原城址碑
写真2枚目 小田原城案内図
写真3枚目 小田原城天守閣
写真4枚目 天守閣から見た伊豆方面
写真5枚目 天守閣から見た箱根方面
写真6枚目 東掘花菖蒲園
写真7枚目 天守閣脇の庭園
写真8枚目 お堀り
写真9枚目 常盤木門 |
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鉢形城跡に行って来ました。荒川と深沢川に挟まれた断崖上に築かれ、天然の要害になっています。
文明8年(1476年)関東管領の山内上杉氏の家臣・長尾景春により築城され、天文十五年の有名な河越夜戦で8万の大軍を擁した上杉氏が8千の小田原・北条氏に大敗すると、北条氏の城となり、北条氏邦が大規模な改修を行い、現在のかたちになりました。
天正十八(1590)年、豊臣秀吉による「小田原の役」では、北条氏邦は鉢形城に三千の兵で篭りました。豊臣方の前田利家、上杉景勝らの大軍に囲まれ、車山から大砲の攻撃なども受け、一ヵ月後に開城となりました。その後、鉢形城は廃城。現在は城址公園として整備され、公園の様になっていますが、堀や土塁が良く残っていて、規模の大きさが良く分かります。
かつての城の一角に「鉢形城歴史館」が有ります。館内には鉢形城の門を復元したものや、城の模型などがあり、パネルなどで鉢形城の歴史が分かるように出来ていました。
鉢形城跡 (国指定史跡)
鉢形城歴史館
埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
電話 048−586−0315
開館時間 9:30〜16:30(入館は16:00まで)
休館日 月曜日、祝日の翌日、年末年始
入場料 一般200円 大学生・高校生100円
70歳以上・中学生以下 無料
写真の9,10枚目は鉢形城歴史館休憩所
写真11枚目は鉢形城歴史館です。
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八王子城跡に行ってきました。戦国時代、小田原に本拠をおいた北条氏の支城として築城されました。
城内に八王子権現(牛頭天王と八人の王子)を祭ったことから八王子城とよばれ、それが八王子の地名の由来になりました。城主は北条氏照。険しい山中に築かれた山城で、登り甲斐がありました。現在の城跡には、8合目、9合目の標柱や、分岐の標識があって、山頂直下の景色を含め、登山そのものでした。これだけの城でも、1590年(天正18)に豊臣方の前田利家・上杉景勝の15,000人の大軍により1日で落城しました。戦国末期の銃や大砲が主力の戦闘では、やはり、深い水を湛えた堀、厳しく高い石垣など、人の手が加わった大阪城なみの城塞でないと防げないのでしょうか?城主・氏照はこの時、小田原城に籠城中で、開城後、兄の氏政とともに切腹させられました。
八王子城跡には山麓に御主殿跡と再現された曳橋があり、見応え充分の城跡でした。近くにある「御主殿の滝」(写真一番下)は落城時、将兵、婦女子らが自刀し、次々に身を投げた為、三日三晩赤く染まったそうです。
城跡入口から城跡山頂までは登り1時間、下り40分。平成18年4月に日本城郭協会より「日本100名城」に選定されました。
八王子城 (国史跡)住所 元八王子町3-2715-2(管理棟)、西寺方町、下恩方町問合せ 八王子観光協会
TEL:042-643-3115
交通 JR高尾駅北口→恩方車庫行き、グリーンタウン高尾行きバスで5分、バス停:霊園前下車、入口まで徒歩20分入場料 無料御主殿整備地区管理棟でのトイレ利用、パンフレットなどの配布は8:30〜17:00まで駐車場 バス4台・普通車14台利用可。時間は8:30〜17:00。
写真1 八王子城管理事務所
写真2 八王子城跡公園入り口の鳥居
写真3 八王子神社
写真4 八王子城本丸跡碑
写真5 古道から見る復元された曳橋
写真6 復元された曳橋
写真7 御主殿跡石垣
写真8 御主殿跡(千畳敷)
写真9 御主殿の滝 |
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福岡城は江戸時代初頭に完成した城で、外様大名・福岡藩52万石の黒田氏の居城でした。
九州一の規模で、内郭部だけでも8万坪という広大な敷地でした。黒田如水の知恵によるものか、天守閣が無く(天守台のみ)徳川幕府から睨まれる事も無く明治維新まで安泰だったでした。
この地で、自分が特に好きな武将は後藤又兵衛です。彼は「黒田24騎」に数えられ、朝鮮出兵、関が原でも活躍しますが、1615年、大坂夏の陣で徳川方の奥田忠次らを討ち取り、多勢に無勢ながらも奮戦しましたが、鉄砲隊に銃撃され自刃しました。戦の前、徳川家康が高額で召抱えようとしましたが、義を貫き豊臣方につきました。
福岡城 (国指定史跡)
福岡県福岡市中央区城内
JR鹿児島本線博多駅〜地下鉄大濠公園駅下車徒歩5分
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